第1話 十五年目の指切り
第1話 十五年目の指切り
八月の朝は、まだ七時を過ぎたばかりなのに、庭の土までぬるくなっていた。相沢蓮は、薄い水色の半袖ブラウスに紺色の綿パンツをはき、麦わら帽子のつばを指で持ち上げた。しゃがんだ拍子に膝へ土がついたが、帰る前には洗濯機を回すつもりだったので、そのままミントの茎へ園芸ばさみを入れた。
「ミントは元気すぎるくらいですね。放っておいたら、ラベンダーのところまで占領しそうです」
縁側に座っていた立花妙子は、白地に朝顔を染めた木綿のワンピースを着て、うちわで首元をあおいでいた。足元には昨夜たたみ忘れた洗濯物の籠があり、薄桃色のタオルが一枚だけ床へ垂れている。蓮が指差すと、妙子は眼鏡を押し上げながら庭を眺めた。
「元気なのはいいことだけど、あの子に少し分けてやりたいねえ。東京へ行ったきり、電話をする元気もないみたいだから」
「仕事が忙しいんですよ。春に新しい部署へ移ったって言っていましたから」
「それを聞いたのも、もう半年前でしょう。蓮ちゃん、あの子から連絡がない日まで覚えているんじゃないの」
蓮は答えず、摘み取ったミントの葉を竹籠へ入れた。最後に湊から届いたメッセージは、二月三日の午後十一時四十七分だった。「部署が変わって忙しい。また落ち着いたら連絡する」と、たった二行だけ書かれていた。何度も画面を開いたせいで文字の並びまで覚えていたが、妙子には知られたくなくて、カモミールの枯れた花へ手を伸ばした。
「今日はこれを乾かして、お茶にしましょう。夜、少しは眠りやすくなるかもしれません」
「蓮ちゃんの話を聞いているほうが、よく眠れるよ。難しい園芸の話をされると、五分も持たないもの」
「それ、私の話が退屈だってことですよね」
「安心するってこと。湊なんか、電話をかけてきても会社の話ばかりで、横文字が多くて分からないよ」
二人の笑い声に驚いたのか、垣根の向こうから茶色い猫が顔を出した。近所の魚屋でアジの頭をもらって歩く猫で、妙子は勝手に「社長」と呼んでいる。社長は蓮の足元に鼻を近づけたものの、食べ物がないと分かると、尻尾を立てて隣家の物置の下へ入っていった。
庭の奥には、白いペンキの剥げた古いベンチが置かれていた。右側の脚が少し短く、座ると小さく揺れるため、妙子が何度か捨てようとしたことがある。それでも蓮が直して使うと言い張ったのは、十歳の夏、そのベンチで湊と指切りをしたからだった。
「大人になったら、蓮と結婚する。だから、ほかのやつと結婚するなよ」
日に焼けた頬でそう言った少年の顔を、蓮は今でも覚えていた。指切りのあと、二人で食べた棒のアイスは暑さですぐに溶け、湊の白いTシャツへ紫色の染みを作った。妙子に叱られると怯える湊の代わりに、蓮が水道でシャツを洗い、二人でベンチの背へ広げて乾かしたのだった。
「また、あのベンチを見ていたでしょう」
「ペンキを塗り直さないと、雨で木が傷むと思っただけです」
「湊が帰ってきたら、二人で塗らせればいいよ。あの子も盆くらいには顔を出すかもしれないしね」
「そうですね。帰ってきたら、庭を見て驚くでしょうね」
口にすると、本当に玄関から湊が入ってくるような気がした。蓮は麦わら帽子を脱ぎ、額に張りついた髪を手の甲で払った。帽子の内側には汗がにじんでいたが、胸の奥には、まだ冷蔵庫から出したばかりのラムネのような小さな期待が残っていた。
庭仕事を終えると、蓮は台所に立ち、昼食と作り置きの準備を始めた。冷蔵庫には、妙子が昨日買ったキュウリが三本と、少ししなびたナスが二本、蓮が持ってきたトマトと鶏ひき肉が入っている。窓辺では首振り扇風機が回っていたが、ガス台へ火をつけると、薄いブラウスがすぐに背中へ張りついた。
「お昼は冷や汁にしましょうか。夕飯には鶏そぼろと、ナスの煮びたしを置いていきます」
「また、そんなに作るの。蓮ちゃんだって自分の夕飯があるでしょう」
「私は余ったそぼろをご飯にのせれば十分です。卵も焼いたら、立派な三色丼になりますよ」
「二色しかないじゃないの。緑はどうするのさ」
「ミントをのせますか」
「それは嫌だよ。三色目はたくあんでいい」
蓮は声を立てて笑い、まな板の上でナスを半月切りにした。包丁が板へ当たる音に交じり、庭からアブラゼミの声が聞こえてくる。だし汁の匂いが台所に広がると、妙子は食器棚から青い小鉢を二つ取り出し、欠けていないほうを蓮の前へ置いた。
「湊が帰ってきたら、あの子の好きな豚の角煮を作ってやりたいねえ。東京じゃ、ろくなものを食べていないだろうから」
「今は何でも売っていますよ。お総菜だって、こちらより種類が多いでしょう」
「売っているものと、家で作るものは違うよ。蓮ちゃんの煮びたしだって、同じ味は店にないもの」
「じゃあ、湊にも食べてもらわなくちゃ。帰ってきたときに居心地のいい家が残っていれば、それでいいんです」
妙子は何か言いかけ、青い小鉢の縁を親指でなぞった。蓮が十八歳の春、湊は東京へ出発する駅のホームで、「仕事が落ち着いたら迎えに来る。母さんのことを頼む」と言った。その言葉を信じて地元へ残ったことを、妙子も知っていた。
「蓮ちゃん。もし、湊が――」
「お義母さん、お醤油は小さじ一杯でいいですよね。昨日、先生から塩分の話をされましたから」
「また、その呼び方をしてくれるんだね」
「お義母さんが呼べって言ったんじゃないですか。今さら妙子さんなんて、よそよそしくて呼べませんよ」
妙子は目尻を指で押さえるふりをして、冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出した。蓮は気づかないふりをしながら、ナスをだし汁へ沈めた。湯気の向こうで揺れる妙子の姿を見ていると、湊が帰らなくても、この台所を守ることには意味があると思えた。
昼食を終えたあと、蓮は一度自宅へ戻り、汗を吸った服を着替えた。白いTシャツに薄緑色のロングスカートを合わせ、洗ったブラウスと綿パンツをベランダへ干したが、強い日差しなら夕方までに乾きそうだった。冷蔵庫を開けると、麦茶と卵が二個、食べかけのたくあんしか入っておらず、買い物へ行かなければと思いながら、妙子の家へ持っていく薬の一覧表を鞄へ入れた。
午後二時を過ぎたころ、蓮は再び庭へ入った。ラベンダーを干すために物置から網籠を出していると、家の前で車のエンジン音が止まった。この家を訪ねる人はたいてい徒歩か自転車で来るため、蓮は網籠を抱えたまま門のほうを振り返った。
「お義母さん、誰か来る予定がありましたか」
「いいや。宅配便じゃないのかい」
「宅配便にしては、大きな車ですね」
門の外に止まっていたのは、黒く磨かれた見慣れない車だった。運転席の扉が開き、白いシャツに細身の黒いパンツをはいた男性が降りてくる。髪は短く整えられ、腕には蓮の知らない銀色の時計が光っていたが、少し右肩を下げて歩く癖は昔と変わっていなかった。
「湊……?」
蓮の手から網籠が傾き、乾かす前のラベンダーが数本、石畳へ落ちた。半年間待っていた声も、十五年間思い描いてきた言葉も、喉の奥で一つに絡まった。湊は蓮を見て足を止めたが、懐かしそうに笑うことも、ただいまと言うこともなかった。
「久しぶり。蓮も来てたんだな」
「来てたって……。毎日ではないけど、お義母さんのお手伝いをしているから」
「ああ、そうだったな。母さんは家にいる?」
「いるよ。急にどうしたの。帰ってくるなら、連絡してくれれば、好きなものを用意したのに」
それだけ話しても、湊は門の中へ入ろうとしなかった。何度も車の助手席へ目を向け、シャツの袖口を指で直している。蓮が理由を尋ねる前に助手席の扉が開き、細いベージュ色の靴をはいた足が地面へ降りた。
現れたのは、白いワンピースを着た若い女性だった。肩までの髪は毛先まで滑らかに整えられ、耳元では小さな真珠の飾りが揺れている。女性が黒い日傘を開くと、強い日差しを受けていた庭に丸い影が落ち、その縁が古いベンチの脚を横切った。
「あの、湊。この方は?」
「先に母さんへ話してからと思ったんだけど、蓮にも紹介しておくよ」
湊は女性の隣へ立ったが、蓮の顔をまともに見ようとはしなかった。女性からは、庭のラベンダーとは違う、甘く冷たい香水の匂いがした。蓮は土のついた手をスカートで拭いかけ、汚してはいけないと思い直して、指を強く握った。
「紹介するよ。結婚を考えている、三好沙耶さんだ」
黒い日傘の下で、沙耶は白い歯を見せて笑った。縁側では、昼に洗って伏せておいた青い小鉢が、風に押されて小さな音を立てた。蓮は返事をしようと口を開いたが、耳の奥では十五年前の湊の声だけが、アブラゼミの鳴き声に交じって何度も繰り返されていた。




