第9話 約束を返す日
第9話 約束を返す日
合鍵を返した翌朝、蓮は七時まで布団の中にいた。妙子の朝食を作る必要も、薬の袋を確かめる必要もない。それでも体はいつもの時刻に目を覚まし、冷蔵庫の前へ立つと、無意識に四人分の献立を考えようとした。
「今日は、私の朝御飯だけでいいのよ」
蓮は自分へ言い聞かせ、店長からもらった最後のトマトを薄く切った。食パンへチーズと一緒にのせ、オーブントースターで焼くと、狭い台所に香ばしい匂いが広がった。ケチャップを出そうとして、賞味期限が三か月も過ぎていることに気づき、蓮は瓶の中身を新聞紙へあけた。
食後、食器棚の一番上から古い裁縫箱を下ろした。中にはボタン、ほつれた髪留め、湊が東京へ行った年の切符が入っている。箱の底に敷いたハンカチをめくると、青いガラス玉が一つ転がり出た。
十歳の夏、祭りの屋台で湊が取ったものだった。ラムネ瓶の玉に似ているから宝石だと言い、結婚の約束を忘れないために持っていろと蓮へ渡した。蓮はガラス玉を洗い、柔らかい布で拭いてから、白い封筒へ入れた。
午前九時、蓮は湊へ短いメッセージを送った。
「帰る前に、沙耶さんと二人で庭へ来てください。最後に話したいことがあります」
返事は十分後に届いた。「十時なら話せる」とだけ書かれていた。蓮は薄い青色のブラウスに白いパンツを合わせ、鏡の前で髪を結び直した。十五年間持ち歩いた話を終わらせる日に、妙子の世話をするときのエプロンは必要なかった。
十時前に妙子の家へ着くと、門は開いていた。庭には朝の水がまかれ、ミントの葉から透明なしずくが落ちている。折れた白花夕顔は新しい支柱に支えられ、小さな葉を太陽へ向けていた。
「水をやったのは、沙耶さんかい?」
蓮が縁側へ声をかけると、妙子は薄茶色のワンピース姿で出てきた。手には食べかけのせんべいを持ち、口元に小さな欠片がついている。蓮は妙子の顔を見ると薬のことを尋ねそうになったが、唇を一度閉じた。
「沙耶さんが、何度も場所を確かめながらやってくれたよ。夕顔には、根元へ少しだけと言ってあったからね」
「そうですか」
「薬も飲んだし、朝御飯も食べた。食パンを湊が焼いて、沙耶さんが目玉焼きを作ったよ。黄身が二つとも潰れていたけど、味は同じだった」
「それならよかったです」
「ほら、薬を聞かなかったね。少しずつでいいんだよ」
妙子はせんべいを半分に割り、蓮へ一枚渡そうとした。蓮が朝食を食べてきたと断ると、自分で二枚とも口へ入れた。ぱりぱりという音を立てながら、話が終わるまで家の中にいると約束した。
やがて、湊と沙耶が玄関から出てきた。湊は白いシャツに黒いパンツをはき、東京から来た日と同じ銀色の腕時計をつけている。沙耶は淡い水色のワンピースを着ていたが、黒い日傘は開かず、手に持ったままだった。
「話って何だよ。荷物をまとめたいから、長くしないでくれ」
「分かってる。私も、これで終わりにするつもりだから」
「終わりって、昨日、鍵を返しただろ。まだ何かあるのか?」
「鍵を返しただけでは、十五年間を片づけられないから」
蓮は古いベンチの前へ立った。塗り直す予定だった白いペンキは剥がれ、背もたれの隅には十歳の湊が小石でつけた傷が残っている。沙耶はベンチを見つめたあと、何も言わずに蓮の話を待った。
「湊。私はあなたを待っていました」
「また、その話かよ」
「最後まで聞いて。今まで私は、待っていなかったふりをしてきた。お義母さんを支えたかっただけだと、自分にも言い聞かせていた。でも、それでは自分に嘘をつくことになる」
湊は腕を組み、視線を庭の外へ向けた。道の向こうでは豆腐店の小型トラックが止まり、ラッパの音が聞こえている。妙子はいつもなら鍋を持って買いに出る時刻だったが、今日は縁側に座ったまま動かなかった。
「私はあなたを待っていた。十五年も、あなたの言葉を信じて待っていた。十歳の指切りだけじゃない。十八歳の駅でも、二十歳の電話でも、あなたは迎えに来ると言った」
「それは、もう謝っただろ」
「まだ謝ってもらっていない。冗談を本気にした私が悪いと言われただけです」
「じゃあ、何て言えば満足するんだよ」
「私が満足する言葉を探すのではなく、自分が何をしたのか考えてください」
湊は腕をほどき、シャツの袖口を引っ張った。苛立ったときに服を触る癖は、子供の頃から変わっていない。沙耶は隣に立っていたが、湊をかばおうとはしなかった。
「約束を信じたことは、私が選びました。東京へ行かず、この町へ残ったことも、お義母さんを支えたことも、最後に決めたのは私です。だから、自分の選択を全部あなたのせいにするつもりはありません」
「だったら、俺だけが悪いみたいに言うなよ」
「でも、あなたの責任まで私に押しつけないで。迎えに来ると言いながら、別の人と付き合ったこと。お義母さんを私へ任せながら、便利だから頼っただけだと言ったこと。それは、私が勝手にしたことではありません」
「俺は東京で働かなきゃならなかったんだ。母さんのことまで全部できるわけがないだろ」
「できないなら、できないと話せばよかった。約束を守れないなら、終わらせたいと伝えればよかった。あなたは何も言わず、私が待ち続けることと、お義母さんを支え続けることだけを受け取った」
蓮の声に、湊は答えなかった。ミントの葉を揺らした風が、白花夕顔の細い蔓を支柱へ触れさせた。蓮は鞄から白い封筒を取り出し、中の青いガラス玉を手のひらへ落とした。
「覚えてる?」
「何だ、それ」
「十歳の夏祭りで、湊がくれたガラス玉。結婚の約束を忘れないために持っていろと言ったでしょう」
「そんなもの、まだ持ってたのかよ」
「大切だったから」
蓮はガラス玉を古いベンチへ置いた。朝日に照らされた青い玉は、剥がれた白いペンキの上で小さな影を作った。どこにでもある安いガラス玉だったが、蓮にとっては十五年間、宝石よりも捨てられないものだった。
「私は、お義母さんを支えた時間まで、あなたを待つためだけだったことにはさせない」
「どういう意味だよ」
「病院へ付き添ったことも、食事を作ったことも、この庭を育てたことも、私が自分で覚えて、自分で身につけたものです。園芸店で働けるようになったのも、この庭で失敗を重ねたから。町の人とつながれたのも、お義母さんの買い物や通院に付き添ったからです」
「それなら、無駄じゃなかったんだろ」
「無駄ではありません。でも、あなたが無駄にしなかったわけではない。私が自分で取り戻すんです」
湊は顔をしかめたが、反論する言葉を見つけられなかった。蓮はガラス玉から手を離し、白いパンツについた土を払った。十五年分の思い出は、玉一つを置いたからといって消えないが、もう家へ持ち帰る必要はなかった。
「湊さん、私にも聞かせてください」
それまで黙っていた沙耶が口を開いた。黒い日傘の持ち手を両手で握り、湊の正面へ立つ。湊は面倒そうに眉を寄せたが、沙耶は目をそらさなかった。
「どうして蓮さんとの約束を、私に話さなかったんですか?」
「約束じゃないって言っただろ。昔の話だよ」
「私と付き合ってからも、蓮さんに戻るかもしれないと言っていたんですよね」
「仕事が嫌になったときに、地元へ帰りたいと言っただけだ」
「結婚指輪の話までしていたのに?」
「若い頃の話を、いちいち恋人に報告する必要はないだろ」
「では、どうして蓮さんの存在そのものを隠したんですか? お母様を毎日支えている人がいることくらい、話せたはずです」
「隠してない。話す必要がなかっただけだ」
「あなたにとって必要がなくても、私には必要でした。私は何も知らずに、この家の嫁になろうとして、蓮さんを家政婦のように扱ってしまったんです」
「それは沙耶が勝手に勘違いしたんだろ」
沙耶の指が、日傘の持ち手を強く握った。昨日までなら、湊に嫌われないように謝っていたかもしれない。しかし今日は唇を結び、言葉を選んでから続けた。
「蓮さんには、迎えに行くと言った。私には、ただの幼馴染だと言った。お母様には、いずれ東京へ呼ぶと言いながら、ご本人の希望も聞かなかった。湊さんは、相手によって都合のよい話をしていただけではありませんか?」
「みんなが騒ぐから、話が大きくなったんだよ。俺は誰も傷つけるつもりなんかなかった」
「つもりがなければ、傷つけても責任はないんですか?」
湊は沙耶を見つめたあと、古いベンチへ目を落とした。青いガラス玉を指で転がし、何か言いかけては口を閉じた。やがて、長く息を吐いて蓮へ向き直った。
「分かったよ。悪かった。俺がちゃんと話さなかったのが悪かったんだろ」
「湊」
「何だよ。謝ってるじゃないか」
「何について謝っているの?」
「昔の約束を曖昧にして、母さんを任せきりにしたことだよ。俺だって、こんなことになるとは思ってなかった。悪者みたいに責められるのは、もう勘弁してくれ」
蓮は湊の顔を見つめた。謝罪の言葉は口にしているが、湊が気にしているのは、自分が悪い人間として見られることだった。それでも蓮は、謝り方まで教える役目を引き受けるつもりはなかった。
「謝罪は受け取ります」
「だったら、もういいだろ。母さんのところにも、今までどおり来ればいい。沙耶とも、少しずつ慣れていけば――」
「許すとは言っていません」
「蓮、お前はいつからそんなに冷たい人間になったんだよ」
「今までの私が、自分を後回しにしすぎていただけです」
湊は口を閉じた。蓮は妙子を見たが、妙子は引き止めず、小さくうなずいた。自分の暮らしを自分で整えるという、昨夜の約束を守ろうとしていた。
「忘れた約束はいりません。私はもう、自分との約束を守ります」
「自分との約束って何だよ」
「誰かに選ばれるまで待たないこと。自分の時間を、自分のためにも使うことです」
蓮はベンチへ残したガラス玉に背を向けた。門へ向かう途中、白花夕顔の根元に新しい芽が出ているのを見つけたが、今日は手を伸ばさなかった。誰かに守られ続けなくても、根は自分の力で土をつかみ、光のある方向へ伸び始めていた。




