第10話 私の名前で育てる庭
第10話 私の名前で育てる庭
青いガラス玉をベンチへ置いた翌朝、湊と沙耶は東京へ帰ることになった。二人は同じ車で来たが、沙耶は駅から新幹線へ乗り、湊は荷物を積んだ車で帰ると言った。結婚の話は一度白紙に戻し、それぞれが自分の家族と向き合ってから、今後を考えることにしたらしい。
沙耶は淡い灰色のワンピースを着て、銀色のキャリーケースを玄関まで運んだ。東京から持ってきた高級総菜の空箱や、妙子に飲ませようとした健康食品は、紙袋へまとめてある。黒い日傘だけは開かず、細く畳んだまま腕にかけていた。
「お母様、ではなく、妙子さん。本当にお世話になりました」
「私は大したことをしていないよ。桃のケーキはおいしかった。半分しか食べさせてもらえなかったけどね」
「今度は、お薬のことを確認してから、食べられるものを選びます」
「今度があるなら、手ぶらでおいで。一緒に麦茶でも飲めば、それで十分だよ」
妙子が差し出した手を、沙耶は両手で握った。それから庭へ回り、白花夕顔の根元へしゃがんだ。新しい葉には小さな虫食いがあったが、折れた茎の下から伸びた芽は、支柱へ巻きつき始めていた。
「踏んでしまって、ごめんなさい。次に来ることがあったら、勝手に触らずに、先に聞きます」
花は返事をしなかったが、沙耶は立ち上がるまでしばらく葉を見ていた。蓮には、駅まで一緒に歩いてもらえないかと頼んだ。二人は妙子の家を出ると、朝から開いているパン屋の前を通り、川沿いの道を並んで歩いた。
パン屋からは、焼きたてのバターロールの匂いが流れていた。沙耶は朝食をほとんど食べていなかったため、蓮は店へ入り、あんパンを二つ買った。駅前のベンチへ座り、紙袋を開くと、まだ温かいパンから甘い湯気が立った。
「蓮さんは、最後まで食べ物の心配をするんですね」
「おなかがすいたまま新幹線へ乗ると、気分が悪くなるかもしれませんから」
「そういうところに、妙子さんも甘えてしまったんでしょうね」
「私も、誰かの役に立つことで、自分の居場所を作ろうとしていました。どちらか一人だけが悪かったわけではありません」
「湊さんとのこと、本当にごめんなさい」
「沙耶さんが謝ることではありません。私も沙耶さんの存在を知らなかった。知らない女性から奪われたと思っていました」
「私も、知らない女性から奪われると思っていました。私たち、同じ人から違う話を聞いて、勝手に相手を怖がっていたんですね」
沙耶はあんパンを半分に割り、中の粒あんを見つめた。白いワンピースで来た日より化粧は薄く、髪も後ろで一つに束ねている。電車の到着を知らせる放送が流れると、残ったパンを紙袋へ戻し、立ち上がった。
「私は、良い嫁になろうとする前に、自分の両親へ本当のことを話します。介護のことも、結婚後の暮らしも、写真一枚でごまかさずに考えます」
「湊と結婚するんですか?」
「今は分かりません。分からないのに、分かったふりをするのはやめます」
「それがいいと思います」
「蓮さんも、お元気で。今度会うことがあったら、恋敵ではなく、普通にお話しできるといいですね」
沙耶は黒い日傘を持ったまま改札を通った。階段の手前で一度振り返り、深く頭を下げる。蓮も頭を下げ、姿が見えなくなるまで、その場に立っていた。
妙子の家へ戻ると、湊が黒い車へ荷物を積んでいた。紺色の旅行鞄、仕事用の鞄、土産の入っていた紙袋が、後部座席に乱雑に押し込まれている。妙子は玄関先で、息子が朝に使ったコーヒーカップを布巾で拭いていた。
「蓮、沙耶を送ってくれたのか」
「駅までね。もう電車に乗ったと思う」
「そうか」
湊は車の扉を開けたが、すぐには乗らなかった。腕時計を何度も確かめ、シャツの袖口を引っ張っている。蓮は言葉を待たずに庭へ入ろうとしたが、湊が背中へ声をかけた。
「蓮、今まで母さんのこと、ありがとう」
蓮は足を止めた。十五年間、何度も待った一言だった。ようやく聞けたというのに、胸の中で何かが元へ戻ることはなく、ただ言葉だけが静かに置かれた。
「うん。受け取ります」
「それだけか?」
「ありがとうと言ってくれたことは、受け取ります。でも、それで昔の約束へ戻ることはできない」
「分かってるよ。俺も、すぐに全部分かるとは言えない。母さんのことを任せすぎたことも、蓮がしてくれたことも、東京へ戻ってから考える」
「今度は、お義母さん本人に聞いてあげて。何をしてほしいのか、どこで暮らしたいのか」
「母さん、連絡する。今度は、母さんが話し終わるまで切らないから」
「期待しすぎずに待っているよ。あんたは昔から、言うことだけは立派だからね」
妙子が答えると、湊は小さく頭を下げた。抱きしめることも、派手な別れの言葉を口にすることもなく、車へ乗り込んだ。黒い車が角を曲がるまで、妙子はカップを拭いた布巾を握ったまま、玄関先に立っていた。
湊が東京へ戻ったあと、妙子は町の地域包括支援センターへ相談した。通院には送迎サービスを利用し、週に二度、家事を手伝ってもらうことになった。薬も一回分ずつ分けて届けてもらい、食欲のない日は配食サービスを頼めるようにした。
「知らない人を家に入れるのは落ち着かないねえ。台所の布巾を、違う引き出しへしまうんだよ」
「最初に場所を教えてあげてください。私だって、初めから知っていたわけではありません」
「蓮ちゃんは、一回言えば覚えたもの」
「比べたら駄目です。お義母さんだって、携帯電話の使い方を何回教えても忘れるでしょう」
「それとこれとは別だよ」
蓮は週に一度ほど、仕事の帰りに妙子の家へ寄った。薬を確認するためではなく、庭のハーブで淹れたお茶を一緒に飲むためだった。妙子も蓮が来られない日には催促せず、自分で買ったせんべいを一枚残しておくだけにした。
蓮は妙子を「お義母さん」と呼び続けたが、そこに湊との結婚の意味はなくなっていた。十五年も呼んできた名前を、無理に捨てる必要はないと思えたからだ。妙子も、未来の嫁ではなく、一人の大切な友人として蓮を見るようになった。
秋になるころ、町の商店街で長く空いていた小さな店舗に、借り手を募集する紙が貼られた。以前は和菓子屋だった店で、木の棚と小さな厨房が残り、裏には日当たりのよい庭もある。蓮は窓ガラス越しに店内を眺め、園芸店の店長へ相談した。
「家賃は安いけど、壁も床も直さないと使えないぞ。店を出すなら、仕事との両立も考えないとな」
「週に三日だけ、ハーブのお茶と焼き菓子を出したいんです。園芸店で働く日も残したいです」
「相沢さんなら、植物の相談ができる喫茶店にしたらどうだ。苗も少し置けば、うちから仕入れられる」
「店長、商売の話になったら急に協力的ですね」
「当たり前だ。店のバジルへサボテンの値札をつけた分、働いて返してもらわないとな」
蓮は銀行の帳面を開き、十五年間少しずつ貯めた金額を確かめた。本当は湊と暮らす部屋や結婚式のために使うつもりだったお金である。何度も数字を見直したあと、蓮は店を借りる契約書へ、自分の名前を書いた。
開店準備には三か月かかった。古い床を磨き、壁を白く塗り、妙子の庭で増えたミントやカモミールを店の裏庭へ移した。地域の菓子工房へ通って、ラベンダーのクッキーとレモンバームのパウンドケーキの作り方も習った。
白花夕顔は、妙子の庭から種を分けてもらった。折れた茎から伸びた蔓は秋までに三つの花を咲かせ、その種が茶色く熟していた。蓮は種を裏庭へまき、春になるまで土の中で休ませた。
翌年の初夏、店は開店の日を迎えた。蓮は白いブラウスに深緑色のエプロンをつけ、朝からスコーンを焼いた。店内には小麦とバターの匂いが広がり、厨房の流し台には、試食に失敗した少し焦げた一個が残っていた。
「開店初日から焦がしたのかい?」
妙子は、淡い藤色のワンピースを着て、両手で細長い箱を抱えてやってきた。以前より歩く速度は遅くなったが、自分の鞄には薬と水筒を入れ、送迎車を予約して一人で来たという。蓮は椅子を勧めたが、妙子は先に贈り物を開けるように言った。
「何ですか、これ」
「十五年分の退職金にしては安いけどね」
「私は退職したわけではありません。お茶を飲みに行く仕事へ変わっただけです」
「それなら、開店祝いだよ。自分で選んだんだけど、派手すぎないか心配でね」
蓮が箱を開けると、中には淡い若草色の日傘が入っていた。縁には小さな白い花の刺繍があり、木製の持ち手は手になじむよう滑らかに磨かれている。東京から来た黒い日傘とは違い、箱を開けただけで、春の新しい葉を思わせる色が店内へ広がった。
「誰かを待つためじゃなく、自分で歩く日に使って」
「ありがとうございます。大切にします」
「大切にしすぎて、箱へしまい込んだら駄目だよ。道具は使ってこそだからね」
「お義母さんこそ、贈り物のタオルを何年もしまっていますよね」
「あれは、お客様が来たときに出すんだよ」
「お客様が来ても、古い朝顔のタオルを出しているでしょう」
二人は顔を見合わせて笑った。店の外では、開店時間を待つ園芸店の客や近所の人が、看板を眺めている。蓮は若草色の日傘を開き、妙子と一緒に店の前へ出た。
日傘を通した光が、蓮の白いブラウスへ淡い緑色の影を落とした。風には、裏庭で育てたミントと、焼き上がったスコーンの匂いが混じっている。蓮は入口の上に掲げた木の看板を見上げた。
そこには、「相沢蓮の庭」と刻まれていた。
「いい名前だねえ。誰の店か、すぐ分かる」
「はい。もう、誰かの名字になる日を待たなくてもいいので」
「蓮ちゃんは、蓮ちゃんだよ。名字が変わっても、変わらなくてもね」
開店時刻になり、蓮は日傘を閉じて店の扉を開けた。十五年前に指切りをした庭は、誰かの帰りを待つための場所ではなくなった。そこで覚えたことも、守ったものも、流した時間も、すべて蓮が自分の手で育て直していた。
店の裏庭では、土を割って出た白花夕顔の芽が、朝の光へ葉を広げている。今日からこの庭で育てるものは、昔の約束でも、誰かに選ばれる期待でもない。相沢蓮が自分で選び、自分の名前で歩いていく未来だった。




