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「連載版」「献立なんて誰にでも組める」と婚約破棄された宮廷の配膳記録官ですが、帳面72冊が止まったら王宮の食卓も止まるようですよ  作者: 夢見叶
第6部 裁き/短く鋭いざまぁ/社会的逆転 第16章 裁き開幕──感情へ逸らす罠

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第89話 利益の行き先が、近すぎる

 数字は冷たい。

 だからこそ、人を逃がさない。


 12日目の予算破綻を思い返すとき、いちばん先に浮かぶのは悲鳴ではない。紙の上で増えていく数字の列だ。足りない食材、急な代替、上乗せ価格、輸送の遅れ、帳尻合わせの追加支出。あの頃、現場の人間は必死だった。私も走った。けれど今、冷えた朝の光の下で帳面を開くと、まるで最初からそうなるように組まれていたみたいに、紙の上だけが整って見える。


 走った者の汗は、紙には残らない。

 残るのは、流された金の向きだけだ。


 昨夜、宰相府の内側へ消えた背中の続きを、私は今朝、別の紙で開くつもりだった。空白で得をした先を、次に出す。そう言い切って閉廷した夜から、まだ半日も経っていない。


「読め」

 宰相が、会計係に短く顎を引く。


 算盤役が珠を1つ、また1つと弾き始める。乾いた音だけが場を満たす。収穫祭前後の仕入れ額、代替調達の上乗せ、輸送遅延による追加費、追加の倉敷料。読み上げられるたびに、傍聴席の貴族の顔がほんの少しずつ動く。事故の話をしている間は、まだ「災難だった」で逃げられた。けれど数字は、誰が困ったかより先に、どこへ流れたかを示してしまう。


 私は手元の差額表を、机の端へそっと押し出した。

 この紙が好きだとは、口が裂けても言えない。冷たすぎて、人が傷ついたことまで同じ平らさで並べてしまう。8日目の大使の食具を置いた音も、12日目に厨房の若い手が泣きそうになっていたことも、紙の上では3桁の数字に均される。


 それでも、必要だ。

 感情へ逸らされた責任を、金の流れで引き戻すために。


「高い、では済みません」

 私は帳面を開いた。

「高くした理由が必要です」


 商会が市場へ出している正規価格と、王宮へ入った価格との差。それは、説明できる幅をすでに超えていた。しかも差額は散っていない。汚く崩れてもいない。数本の細い線へ寄っている。偶然なら、もっと不格好に飛び散る。人の手で流された金は、思った以上に癖が出る。


「収穫祭直前の3日間、同じ商会が同じ品目で連続して落札しています」

 書記官が、時刻を読み上げるときと同じ調子で、入札控えを差し出した。耳が赤い。けれど指先は、もう昨日のように紙端を逆順に揃えない。覚えた、と思う。

「落札後の搬入経路は、いずれも北棟の通用口経由でした」


 北棟。

 昨夜、男の靴音が消えていった方角だ。


 私の指先が、ほんの1瞬だけ止まる。

 冷えた、と思う。怒りではない。冷えた頭のほうが責任線を長く追える、と自分に言い聞かせる手前で、もう実際に冷えている。空白を作れる位置と、上乗せ価格を通せる位置と、北棟へ商会を呼べる位置。3つの輪が重なる場所を、私はもう数えるほどしか持っていない。


 そのとき、卓の角で算盤の珠が1粒、跳ねた。

 算盤役が固まるより早く、扉脇から伸びた長い手が、それをきれいに拾い上げる。

 リュシアンだった。

 珠を、戻るべき桁の溝へ、まるで毎日それをしてきた人の手つきで戻す。指の角度に迷いがない。算盤役の前に置き、軽く頷いて下がる。それだけだった。


 危うく、息を漏らしそうになる。

 こんな場で笑うわけにはいかない。けれど、貴族の威圧を引き受けるはずの扉脇の男が、飛んだ珠だけ妙に正確に拾うというその不均衡が、肩から少しだけ力を抜かせる。庇うなと決めた人ほど、小さな世話が外せない。


 宰相が、無言で次の頁を開く。

 算盤役が、もう1度珠を弾く。

 場の空気は、今度こそ完全に冷えていた。


「送金控えを並べます」

 私は差額表の隣へ、もう1枚を置いた。


 金額、日付、振替先。

 差額の山と、振替の山が、同じ日付で重なる。

 帳面の上で、損失の谷と、利益の山が、ぴたりと向き合った。


「損をした側の名は、王宮です」

 声が、また低くなる。

「では、得をした側は」


 返事は誰からも来なかった。

 言えるはずがない。書かれているからだ。


 送金控えの末尾の欄。商会の代表者名、保証人欄、そしてその裏付けに名を連ねる紹介者。

 私はその欄を指で押さえた。


 下働きの名ではない。

 現場の名でもない。

 もっと、上に近い。


 反対派席のどこかで、誰かが袖口を撫でた。法務係だ。昨日は1度だった癖が、今日は3度になっていた。今、また4度目を重ねる。

 揃いすぎた逸らし方が、自分の体の癖まで揃えてしまっている。


「これは推測ではありません」

 私はもう1枚を取り出した。落札時の立会人名簿だ。

「同じ商会の落札に、毎回、同じ立会人が名を貸しています。立会人の所属は……第2王子周辺です」


 ざわめきは小さかった。

 大きく騒ぐには、もう場の冷え方が深すぎる。


 傍聴席の貴族の何人かが、ようやく顔を上げた。事故の話のうちは、私を「可哀想な元婚約者」として消費できた。利益の話に入った瞬間、その顔は使えなくなる。誰かを哀れんでいる余裕がある立場の人間は、この場にいなくなる。


「事故は、体面を傷つけます」

 私は視線を上げた。

「利益は、もっと静かに残ります」


 宰相が、ようやく短く息を吐いた。怒りでも安堵でもない、紙束を抱えるときに出るほうの、国を背負う息だ。


 扉脇のリュシアンは、こちらを見ていなかった。

 反対派席を見ていた。

 顔色の動きを、1人ずつ覚える目だった。庇うためでも、追い詰めるためでもなく、明日、誰がどの位置から逃げ出すかを見ておくための、静かな目だ。


 私は最後にもう1度、送金控えの末尾を指でなぞった。


「損をしたのが王宮なら」

 言葉を置く。

「得をした先も、必ず近くにあります」


 近い。

 遠い悪意ではなく、廊下を1本挟んだだけの近さに。

 あの北棟の扉の向こうに。

 昨夜、男が迷わずに辿った導線の、その終わりに。


 書記官が、震える指で帳面の末尾へ印を入れた。震えた印は、台本めいて整わない。これも昨夜の鉛筆と同じ強度で、誰の手も入っていない証になる。


 私は息を整え、帳面を閉じた。

 胸の奥で、まだ言葉になりきっていないものが、ひとつ、つかえている。


「数字の次は」

 声が、自分でも意外なほど小さくなった。

「――王太子殿下が、なぜあの夜、お怒りになったのか」


 言いかけて、止まった。

 それを戻すには、私自身の、まだ誰にも言っていない1行が要る。

 言ってしまえば、たぶん分かりやすい。けれど、ここで先に並べていいものなのか、まだ決めかねている自分がいた。


「――その理由を、明日、戻させてください」


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