第89話 利益の行き先が、近すぎる
数字は冷たい。
だからこそ、人を逃がさない。
12日目の予算破綻を思い返すとき、いちばん先に浮かぶのは悲鳴ではない。紙の上で増えていく数字の列だ。足りない食材、急な代替、上乗せ価格、輸送の遅れ、帳尻合わせの追加支出。あの頃、現場の人間は必死だった。私も走った。けれど今、冷えた朝の光の下で帳面を開くと、まるで最初からそうなるように組まれていたみたいに、紙の上だけが整って見える。
走った者の汗は、紙には残らない。
残るのは、流された金の向きだけだ。
昨夜、宰相府の内側へ消えた背中の続きを、私は今朝、別の紙で開くつもりだった。空白で得をした先を、次に出す。そう言い切って閉廷した夜から、まだ半日も経っていない。
「読め」
宰相が、会計係に短く顎を引く。
算盤役が珠を1つ、また1つと弾き始める。乾いた音だけが場を満たす。収穫祭前後の仕入れ額、代替調達の上乗せ、輸送遅延による追加費、追加の倉敷料。読み上げられるたびに、傍聴席の貴族の顔がほんの少しずつ動く。事故の話をしている間は、まだ「災難だった」で逃げられた。けれど数字は、誰が困ったかより先に、どこへ流れたかを示してしまう。
私は手元の差額表を、机の端へそっと押し出した。
この紙が好きだとは、口が裂けても言えない。冷たすぎて、人が傷ついたことまで同じ平らさで並べてしまう。8日目の大使の食具を置いた音も、12日目に厨房の若い手が泣きそうになっていたことも、紙の上では3桁の数字に均される。
それでも、必要だ。
感情へ逸らされた責任を、金の流れで引き戻すために。
「高い、では済みません」
私は帳面を開いた。
「高くした理由が必要です」
商会が市場へ出している正規価格と、王宮へ入った価格との差。それは、説明できる幅をすでに超えていた。しかも差額は散っていない。汚く崩れてもいない。数本の細い線へ寄っている。偶然なら、もっと不格好に飛び散る。人の手で流された金は、思った以上に癖が出る。
「収穫祭直前の3日間、同じ商会が同じ品目で連続して落札しています」
書記官が、時刻を読み上げるときと同じ調子で、入札控えを差し出した。耳が赤い。けれど指先は、もう昨日のように紙端を逆順に揃えない。覚えた、と思う。
「落札後の搬入経路は、いずれも北棟の通用口経由でした」
北棟。
昨夜、男の靴音が消えていった方角だ。
私の指先が、ほんの1瞬だけ止まる。
冷えた、と思う。怒りではない。冷えた頭のほうが責任線を長く追える、と自分に言い聞かせる手前で、もう実際に冷えている。空白を作れる位置と、上乗せ価格を通せる位置と、北棟へ商会を呼べる位置。3つの輪が重なる場所を、私はもう数えるほどしか持っていない。
そのとき、卓の角で算盤の珠が1粒、跳ねた。
算盤役が固まるより早く、扉脇から伸びた長い手が、それをきれいに拾い上げる。
リュシアンだった。
珠を、戻るべき桁の溝へ、まるで毎日それをしてきた人の手つきで戻す。指の角度に迷いがない。算盤役の前に置き、軽く頷いて下がる。それだけだった。
危うく、息を漏らしそうになる。
こんな場で笑うわけにはいかない。けれど、貴族の威圧を引き受けるはずの扉脇の男が、飛んだ珠だけ妙に正確に拾うというその不均衡が、肩から少しだけ力を抜かせる。庇うなと決めた人ほど、小さな世話が外せない。
宰相が、無言で次の頁を開く。
算盤役が、もう1度珠を弾く。
場の空気は、今度こそ完全に冷えていた。
「送金控えを並べます」
私は差額表の隣へ、もう1枚を置いた。
金額、日付、振替先。
差額の山と、振替の山が、同じ日付で重なる。
帳面の上で、損失の谷と、利益の山が、ぴたりと向き合った。
「損をした側の名は、王宮です」
声が、また低くなる。
「では、得をした側は」
返事は誰からも来なかった。
言えるはずがない。書かれているからだ。
送金控えの末尾の欄。商会の代表者名、保証人欄、そしてその裏付けに名を連ねる紹介者。
私はその欄を指で押さえた。
下働きの名ではない。
現場の名でもない。
もっと、上に近い。
反対派席のどこかで、誰かが袖口を撫でた。法務係だ。昨日は1度だった癖が、今日は3度になっていた。今、また4度目を重ねる。
揃いすぎた逸らし方が、自分の体の癖まで揃えてしまっている。
「これは推測ではありません」
私はもう1枚を取り出した。落札時の立会人名簿だ。
「同じ商会の落札に、毎回、同じ立会人が名を貸しています。立会人の所属は……第2王子周辺です」
ざわめきは小さかった。
大きく騒ぐには、もう場の冷え方が深すぎる。
傍聴席の貴族の何人かが、ようやく顔を上げた。事故の話のうちは、私を「可哀想な元婚約者」として消費できた。利益の話に入った瞬間、その顔は使えなくなる。誰かを哀れんでいる余裕がある立場の人間は、この場にいなくなる。
「事故は、体面を傷つけます」
私は視線を上げた。
「利益は、もっと静かに残ります」
宰相が、ようやく短く息を吐いた。怒りでも安堵でもない、紙束を抱えるときに出るほうの、国を背負う息だ。
扉脇のリュシアンは、こちらを見ていなかった。
反対派席を見ていた。
顔色の動きを、1人ずつ覚える目だった。庇うためでも、追い詰めるためでもなく、明日、誰がどの位置から逃げ出すかを見ておくための、静かな目だ。
私は最後にもう1度、送金控えの末尾を指でなぞった。
「損をしたのが王宮なら」
言葉を置く。
「得をした先も、必ず近くにあります」
近い。
遠い悪意ではなく、廊下を1本挟んだだけの近さに。
あの北棟の扉の向こうに。
昨夜、男が迷わずに辿った導線の、その終わりに。
書記官が、震える指で帳面の末尾へ印を入れた。震えた印は、台本めいて整わない。これも昨夜の鉛筆と同じ強度で、誰の手も入っていない証になる。
私は息を整え、帳面を閉じた。
胸の奥で、まだ言葉になりきっていないものが、ひとつ、つかえている。
「数字の次は」
声が、自分でも意外なほど小さくなった。
「――王太子殿下が、なぜあの夜、お怒りになったのか」
言いかけて、止まった。
それを戻すには、私自身の、まだ誰にも言っていない1行が要る。
言ってしまえば、たぶん分かりやすい。けれど、ここで先に並べていいものなのか、まだ決めかねている自分がいた。
「――その理由を、明日、戻させてください」




