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「連載版」「献立なんて誰にでも組める」と婚約破棄された宮廷の配膳記録官ですが、帳面72冊が止まったら王宮の食卓も止まるようですよ  作者: 夢見叶
第6部 裁き/短く鋭いざまぁ/社会的逆転 第16章 裁き開幕──感情へ逸らす罠

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第88話 入室記録を抜ける手は誰

 記録が抜けるのではない。

 抜けるようにされるのだ。


 鍵簿は古い革の匂いがした。何度も開かれ、何度も閉じられ、角だけが人の手に馴染んで丸い。こういう帳面は、真面目に使われているほど汚れる。だから私は綺麗すぎる頁が嫌いだ。人が動いたのに汚れがないなら、そこには別の手入れが入っている。

 昨夜、北の回廊で消えた背中の続きが、今朝この革表紙の中に綴じ込まれている。革の角は擦れて柔らかい。長い年月、夜半の手に何度も握られてきた厚みだ。鍵を貸し、扉を開け、灯を数え、戻すための紙束。仕事の汗が滲むはずの場所だ。


「この時刻だけ、何もありません」

 反対派席の法務係が、袖口をひと撫でしてから指を差した。袖の縫い目が真新しいことに、私は遅れて気づく。仕立て直したばかりの服で裁きの場に出る人は、たいてい自分の見え方を計算している。震えてはいけない場で、震えないように練習してきた指先だ。


 差された欄は、確かに何も書かれていなかった。

 空白だ。

 ただし、空白なのに、整っている。

 上下の行がきっちり揃い、罫線をまたぐインクの滲みもない。前後の頁には、急いだ手が斜めに引いた線や、書き直して上から薄く重なった文字や、忙しい時間帯にだけ落ちる小さな墨の粒があるのに、その区画だけが、まるで新雪のようだった。


 私はもう1度、頁を指の腹で撫でた。

 紙の温度が違う。同じ束のはずなのに、その頁だけ薄く湿りが残っている。墨を入れずに表面だけ整えると、紙は乾き方を間違える。


「忙しかったから書き漏らした、と申し上げたいのですか」

 私が訊くと、法務係は唇の端を上げかけて、止めた。

「夜半は人手も薄うございます。書記の手も追いつかぬことが」

「ええ」

 頷いてから、私は手元の導線図を取り出した。

「忙しい記録ほど乱れます。ここは乱れがありません」


 書記官が、横で大きく息を呑む音が聞こえた。

 その息に押されるように、私は導線図を鍵簿の上に重ねた。


 鍵の受け渡し時刻。

 廊下の巡回。

 門番の交代。

 巡回の間隔と、扉の開閉と、灯りの本数。

 昼間ならば動線が交差する場所も、夜半のごく短い間だけ、誰の目にも触れない隙間が生まれていた。

 帳面の空白と、現場の死角が、紙の上で重なる。


「ここを通れば、誰にも見られません」

 声を低くして、指で空白の上をなぞった。

「鍵を持つ者も、巡回を組む者も、書記官も、それぞれは別の役目を負っています。けれど3つを同じ時刻で抜けば、ちょうど人の流れが消えます」


 裁定席の1人が眉を上げた。

 ようやく届いた、と思う。空白は何もないことではない。誰かが書かないように整えた、作られた余白だ。書かれなかったのではなく、書かれては困る時刻だけが、丁寧に剥ぎ取られている。


「証明する根拠は」

 別の裁定が問う。

 私は鍵番に視線を送った。


 彼は若くもなく老いてもいない男で、控えの席で背を強張らせていた。呼ばれると、鍵束を握り直そうとして、握り損ねた。乾いた金属音が床を打つ。鉄の輪が2度、3度と跳ね、それぞれの鍵が違う向きで止まる。


 私は反射でしゃがみ、用途順に拾い直してから、自分が今なにをしたのかに気づいた。北棟、書類庫、保管庫の外鍵、内扉、控えの間。札の色と歯の向きで、無意識に並べ直してしまっている。場違いなほどいつもの手つきで、危うく口元が緩みそうになる。鍵番は青ざめたまま、礼も言えない。

 受け取った彼の指先が震えていた。


「もう1度、握ってください」

 私が言うと、鍵番はゆっくり鍵束を握り直した。

「あの夜、この鍵を、誰に渡しましたか」

 答えはすぐには返らなかった。喉が幾度か上下した。誰かが背に向けて声を掛けるための言葉を組み立てているのが分かった。けれど鍵番は、それを待たなかった。


「……北棟の、内側の方です」

 声が震えていた。

 震えていたが、言葉になっていた。

 震える証言は、台本めいた整い方をしない。あとで読み返したとき、その歪みがそのまま誰の手も入っていない証になる。昨夜、書記官が走らせた鉛筆と、同じ強度で残る震えだ。


 裁定席の視線が、また1段冷える。

 反対派席の空気は、もう、固いというよりは硬直していた。知らなかったで逃げるには、空白が整いすぎていた。忘れていたで済ませるには、夜の導線が綺麗に揃いすぎていた。


 法務係が袖口をもう1度撫でた。それから、また撫でた。

 昨日まで開廷ごとに1度だった癖が、今日は2度、3度と重なっている。

 反論を組み立てるための時間稼ぎが、ほんの少しずつ伸びている。揃いすぎた逸らし方が、別の場所で逆に浮いてしまうとは、彼自身、まだ気づいていない。


 私は息を1つだけ整えた。怒りで膨らみそうな胸の内側へ、冷たい指を入れて押し戻すような呼吸だ。


 扉脇の影で、リュシアンは口を挟まなかった。

 いつもの位置だ。庇うために前へ出てくれる人ではなく、私の言葉が場に届く幅を、ただ静かに開けてくれる人。私が長く言葉を続けても、彼は急かさない。私が言葉を切らしても、彼は引き取らない。ただ、そこにいる。

 その静けさが、今日はとても助けになった。


 私は鍵簿に視線を戻し、空白の欄をなぞった。爪を立てればすぐに破れそうな、薄い紙だ。けれど薄い紙の上で、もう責任線の輪郭は固まり始めている。


「抜けたのではありません」

 声が、自分でも驚くほど静かだった。

「抜けるようにしたんです」


 言い切ると、傍聴席のすみで誰かが息を呑んだ。

 その小さな音が、空白の頁よりも雄弁に、場の傾きを示していた。


 書記官が震える鉛筆を走らせる。リュシアンが扉脇から短く付け足した。


「灯りの本数も、戻してくれ」

「……はい」

 書記官が答え、夜の数字を1つずつ書き出し始める。昨夜、北の回廊で数えた灯り。今、鍵簿の空白に重ねれば、その数字の少なさだけが、もう1度浮き上がってくる。

 空白を作れた人間は、限られている。

 空白を見逃させられた人間は、もっと限られている。


 私は息を整え、裁定席を見上げた。

 胸の奥は冷えていた。けれど怒りではない。ようやく、誰かを庇うために誰かを切った手が、紙の上で姿を持ち始めた、その手応えだった。


「では、その空白で得をした先を、次に出します」


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