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「連載版」「献立なんて誰にでも組める」と婚約破棄された宮廷の配膳記録官ですが、帳面72冊が止まったら王宮の食卓も止まるようですよ  作者: 夢見叶
第6部 裁き/短く鋭いざまぁ/社会的逆転 第16章 裁き開幕──感情へ逸らす罠

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第87話 足が向かった先が上を示す

 逃げる背中は、口より正直だ。


 扉の外で靴音が跳ねた瞬間、私の足は反射で半歩前へ出かけ、すぐに止まった。追えば捕まる。捕まればそこで終わる。終わってしまえば、責任線は下っ端のところで切れてしまう。ここで切られるのが、いちばん都合のいい人間がいる――そう思った瞬間、横で同じ判断をした声があった。


「止めるな」


 リュシアンだ。短い指示で、護衛の踵がぴたりと止まる。訓練された者ほど、長い命令には迷う。短い命令には従う。彼はそれを誰よりよく知っている。


 男は廊下の角を曲がった。逃げ切ったように見える。傍から見れば取り逃がしだ。けれど私たちが今ほしいのは身柄ではない。あの男が「ここなら助かる」と思い込んだ場所――それが、欲しかった答えだった。


 燭台の灯りが揺れ、照合机の上で紙の繊維がまだ立っていた。あの薄い1枚はもう動かない。動いたのは、持ち主のほうだ。紙が王宮支給だと分かった瞬間、彼の体が先に答えを出した。逃げ方は意外と理屈どおりだ。逃げる先は、たぶんもっと正直だろう。


 追跡役の若手が血相を変えて回廊へ駆け出そうとした。靴の向きが、西。


「西ではありません」


 私は思わず口を出した。彼ははっと体を止め、勢いの残った肩だけが半呼吸遅れて止まる。リュシアンが視線だけで軌道を戻させた。妙に綺麗な制動で、こんなときでなければ少し笑っていたと思う。彼の若さに笑ったのではない。「叱られない叱り方」をする人を、私はあまり知らない。


 西側は宴の間と来賓棟だ。今の時刻、灯りが多すぎる。追われている人間が選ぶ場所ではない。逃げる者は、明るい場所より、見張りの薄い場所より、まず自分を匿ってくれる人のいる場所を選ぶ。本能ではない。仕事の延長だ。普段から出入りしている場所が、咄嗟の足の向きに出る。


 私は壁際へ寄り、頭の中で導線図を広げた。夜半、開いている扉。通行許可の色。交代直後で人手の薄い門。書類庫の脇通路。閉まる音がいちばん遠くまで届く扉。その全部が、北の回廊へ集約していた。


 書記官が小走りで追いついてきた。提出時刻控えを胸に抱えたまま、手だけが小さく震えている。彼がいちばん怖がっているのは、走ることでも声を出すことでもなく、緊張で書きそびれることだ。


「時刻を、お願いします」


 私が言うと、彼は紙端を指で揃え直し、夜気の中で鉛筆を走らせ始めた。靴音の方向。扉の開閉。灯りの数。男が曲がった角の番号。後で誰かが「見なかった」と言い張れないように、見たことだけが残っていく。記録が場を救うのは、こういう瞬間だ。


 北の回廊は、宰相府側へ抜ける導線だ。その先には書類庫と、控えの間と、その奥に内側の通用口がある。封蝋を取り扱う棚も、同じ階の並びに並んでいる。昼の裁きで「同じ手の癖」と私が指摘したあの綴じ糸も、封蝋番号の控えも、たどっていけば結局この階の棚を通ってきた紙だ。


 逃げ込める者は限られている。


 別の追跡役が遠目に男の姿を捉え、すぐに見失った。男は明らかに迷っていなかった。初めて駆け込む場所では、人は曲がり角で必ず半拍止まる。彼は止まらなかった。つまり、足が場所を知っている。


 私は門番の交代簿を頭の中で呼び戻した。夜半のこの時間、北側の門番は半数。その半数は、内側の人間が相手なら声を掛けない。逃げる男にとって、これ以上都合のいい廊下はない。逆に言えば、この導線を作れる位置の人間は、もう数えるほどしかいなかった。


 胸の奥が冷えていく。怒りではない。冷えた頭のほうが責任線を長く追える、と自分に言い聞かせる手前で、もう実際に冷えている。私はこういう冷え方を、もう知っている。8日目の夜にも、18日目の朝にも、ちょうど同じ温度の場所で立っていた。


 遠くで扉が閉まった。北の方角。乾いた、重い音だった。鉛で裏打ちされた扉だけが出すあの低い反響を、私は耳の奥でなぞる。あの扉は、勝手知ったる者しか押さない。


 追跡役が戻ってきて、息を切らしたまま、視線で「捕えに行きますか」と聞いた。私は首を横に振る。


「いま掴むと、ここで切られます」


 声が思ったより落ち着いていた。


「身柄ではなく、扉の名前を覚えてください。あの男が、最後にどの扉の前で消えたか。それだけでいい」


 追跡役は唾を呑み、頷いた。リュシアンが扉脇から短く付け足す。


「灯りも数えろ」


 短い指示だ。けれどそれだけで、明日「見ていなかった」がもう使えなくなる。灯りを数えた者がいるなら、暗くて分からなかった、と誰かが言い逃れる窓を塞げる。


 書記官の鉛筆が止まる。彼が顔を上げ、私を見た。耳が赤い。けれど目だけは、開廷前に証拠束を逆順に置いてしまった頃の彼ではなかった。


「……宰相府の、内側へ、入って、いきました」


 言葉が震えていた。震えていたが、書かれていた。震える文字は、台本めいた整い方をしない。あとで読み返せば、震えがそのまま誰の手も入っていない証になる。


 私はその控えの紙端を、無意識に揃え直していた。それからようやく、リュシアンのほうを見る。


 彼はもう、扉のほうを見ていなかった。私を見ていた。前に出るわけでもない。背を向けるわけでもない。ただ、ここから先は2人で見ていく、と決めた人の立ち方だった。


 逃がしたのではない。辿らせたのだ。


 胸の奥で何かが小さく、けれど確かに切り替わる。守られる側から、隣で立つ側へ。彼の手柄でも、辺境伯の権威でもなく、私たちが同じ向きで決めた判断として、これは残っていく。長く、私はずっと、誰かに庇われない場所で生きてきた。庇われるほうが怖いと思っていた。今夜、初めて「庇わない」がこういう形をしているのだと知った。


 目の奥がふいに熱くなり、すぐに引いた。涙ではない。涙が引いた跡にだけ残る、薄い決意だった。


 私は呼吸を整え、廊下の影へ静かに声を落とした。


「逃げた先が、命令の高さです」


 追跡役が頷く。書記官が時刻を書き終える。リュシアンは何も言わない。その沈黙が、今夜は同意の形をしていた。


 夜明けはまだ遠い。


 けれど私の手の中には、もう1枚、薄い紙ができ上がっていた。逃走先――宰相府の内側。明日この紙が、入室記録の空白と、ぴたりと重なる。


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