第86話 明朝までに、支給紙を突き合わせろ
夜の紙は、昼の紙より嘘をつく。
窓の外は真っ暗だ。燭台の炎が照合机の上で揺れるたびに、紙端の影が少しずつ形を変える。同じ白でも、光の角度が変わると色が変わる。乾ききっていないインクは匂いが立つ。急いで綴じた紐は、指で引けばすぐ分かる。昼の裁きの場で堂々と差し出された反証束を、夜にこの机へ広げてみると、昼間の整然とした顔が少しずつ落ちていく。
「本当に朝までに終えるのですか」
試薬係が訊く。若い。声の端に緊張が残っていて、指先にはまだ薬液の匂いが馴染みきっていない。
「終えます」
答えたのは私ではなかった。扉脇から低い声が短く落ちる。
リュシアンだ。腕を組んでいない。壁に寄りかかってもいない。ただそこに立っているだけで、余計な声が場へ入り込まない空気が生まれる。
私は燭台を一つ手元へ引き寄せ、問題の一枚を炎へ傾けた。
紙肌が浮く。
王宮支給紙の癖だ。外の商会から入る紙は油分をよく吸う。神殿の紙は乾きが硬い。けれど内側の紙、王宮の棚で眠り、王宮の手に触れ、王宮の机の上を何度も渡ってきた紙は、繊維の立ち方に独特の粗さを持つ。それは産地より、使われた場所の癖だ。
「薬液を、裏へ落としてください」
私は試薬係に言った。
「……裏です」
彼が表へ薬を垂らしかけたので、思わず言葉が出た。試薬係は真っ赤になり、紙を持ち替える。こんな夜でも、失敗の仕方だけは妙に人間らしい。
薬が裏面へ滲んだ。繊維が立つ。燭台の光の下で、紙肌がゆっくりと答えを出し始めた。
私は支給紙台帳を手前へ引き、欄を開く。
王宮が一年で扱う支給紙の量は少なくない。官吏の等級ごとに品目が変わり、用途ごとに紙種が分かれる。裁定提出に使える格の紙は、さらに範囲が絞られる。
「書記官、支給先の欄を読み上げてください。裁定提出用の品目、直近1年の分です」
書記官が控えを広げ、一行ずつ読む。官吏の名。部署の名。受領日。
私は反証束から取り出した一枚を台帳の横へ並べた。繊維。紙目。折り目の癖。綴じ糸の寄せ方。封蝋番号の控え。一つずつなら弱い。だが、同じ方向を向いた弱い証拠は、束ねれば強くなる。
「……ここです」
書記官の声が一段低くなる。
支給先の欄の中に、反証提出者の名前が入っている場所があった。1年以内。同じ品目。同じ紙種。外から持ち込んだと言い張るには、この紙は王宮に似すぎている。
私は燭台を戻した。
指先が少しだけ震えているのに、自分で気づく。怒りではない。怖さでもない。もっと静かなものだ。
この紙で、私の仕事が一度終わらされた。
配膳記録官という肩書が剥がれ、「誰にでもできる」という言葉だけが残り、私は宮廷の外へ出た。
その紙が今、別の役目を持ってここへ戻ってきている。自分が出た場所の名前を、自分で持ったまま。
「外から持ち込んだと言い張るには」
口に出してみると、思ったより声が落ち着いていた。
「少し、王宮に似すぎています」
試薬係が固まる。書記官が欄から目を離さない。扉脇の気配が、静かなまま重くなった気がした。
その時、廊下で音がした。
足音だ。急いでいる。廊下を歩く者の音ではなく、方向を決めて逃げる者の歩幅だ。
試薬係が扉の方へ顔を向けた。書記官も顔を上げる。
私は机から離れず、台帳と反証を並べたまま動かなかった。
足音が遠ざかる。廊下の角を曲がる音がして、やがて聞こえなくなる。
扉脇のリュシアンが一歩前へ出た。廊下へ視線を向け、短く顎を引く。追わせる合図だ。捕まえに行く速さではなく、どこへ向かうかを見届けさせる速さで、護衛が動く。
私は机の上へ目を戻した。
支給記録。繊維の粗さ。封蝋の控え。綴じ糸の寄せ方。
全部が同じ方向を指している。昼の裁きの場で有力反証に見えたものが、今この机の上で、出所の地図に変わっている。
「反証ではありません」
声が出るより少し先に、言葉が決まっていた。
「出所の自白です」
書記官が震える手で欄の横へ書き込む。試薬係が台帳と反証を並べたまま、呼吸を止めている。
しばらくして、廊下へ出た護衛が戻ってきた。
書記官がそちらへ顔を向ける前に、私は欄の末尾へ指を置いた。
「逃げました」
確かめるように言う。
「つまり、出所を知っています」




