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「連載版」「献立なんて誰にでも組める」と婚約破棄された宮廷の配膳記録官ですが、帳面72冊が止まったら王宮の食卓も止まるようですよ  作者: 夢見叶
第6部 裁き/短く鋭いざまぁ/社会的逆転 第16章 裁き開幕──感情へ逸らす罠

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第85話 猶予は半日、崩せ

 同じ事故を、もう1度見るのは好きではない。


 8日目の午餐会を思い出すたび、今でも喉の奥が固くなる。銀の蓋が上がる音。香草の匂い。大使が1拍だけ止めた咀嚼。そして、何も言わずに食具が置かれたあの静かな音。怒鳴られた方がましだった。静かな事故は、あとから国を長く傷つける。


 けれど今日は、その場面をもう1度作らなければならない。


 裁定席の許可が出たのは、昨日の審議が終わった直後だった。反証提出の期限まで残り半日。その間に再現を終え、結論を出す。時間は少ない。けれど少ない方が、余計な論点が差し込まれる隙もない。短い時間には、短い時間の強さがある。


 再現卓が設えられたのは、裁きの場から廊下を1本挟んだ小部屋だ。正式な証拠として通すには立会いが必要で、宰相の名代が壁際に控えている。反対派法務係は入れていない。入れれば、また最初から感情的な訴えの文言が前に置かれる。今日は順番を決める日だ。論点を汚す声は要らない。


 私は証拠束を抱えたまま、再現卓の前に立った。


 給仕長が手早く道具を並べる。神官補が禁忌更新台帳を両手で抱えて角の椅子へ座った。書記官が照合欄の写しを机へ広げ、欄を指で数えながら額を光らせている。誰も喋らない。その静けさは、準備の静けさではなく、間違えてはならないと知っている人間の静けさだ。紙の擦れる音だけが、部屋の低いところで続いている。緊張が板の間に溜まっている。


 裁きの場より狭い。その分、逃げ場がない。


「左右が逆です」


 私は反射で口に出した。


 皿を置いた若い係がはっとして手を止める。大使席と随員席を取り違えていた。わずかな差に見える。けれどこのわずかさが現場を狂わせる。係が耳まで赤くして並べ直す。隅で給仕長が短く息をついた。こんな場でも仕事の手が先に出る。少し可笑しくて、少し苦い。


 こういう細さがなければ、この仕事は人を守れない。こういう細さを面倒だからと省いたところから、8日目は始まった。


 裁定席の名代が無言で卓を見ている。


 私は禁忌更新台帳の頁を開いた。当日に現場へ回すはずだった写しの欄を、指先でなぞる。香草の使用可否。代替調味料の優先順。季節ごとの禁忌品目。各行が、現場の判断の根拠になる。どれが欠けても、係は知ったうえで動けなくなる。


「原本には、あります」


 神官補が短く言う。


「写しには、ありません」


 声が静かすぎて、部屋の底が少し落ちた気がした。


 原本は残っている。写しだけが抜けている。現場に届くのは写しだ。つまり照合した係は、正しく確認したつもりで、たった1行だけ欠けた情報で皿を出せた。怠慢ではない。仕組みを切られた結果だ。


 私の胸の中で何かが冷えた。


 怒りではない。もっと静かな、しかし温度のない何かだ。なぜ1行だけなのか。それだけ抜けば充分だと知っていた者がいた。現場の手順を理解していた。どこを切れば確認が死ぬか、計算できた。


 その想像をいつまでも引っ張ってはいけない。今日の仕事が遅れる。


「抜けたのは1行だけです」


 私は台帳を持ち上げず、指でなぞったまま続ける。


「ですが現場では、その1行が全部です」


 傍の書記官が写しへ手を伸ばし、鉛筆で注記を入れた。欄番号、写し作成日、確認印の位置。指先が震えているが、筆先は止まらない。こういう真面目さが記録を生かし、こういう真面目さを誰かが利用した。


 給仕長が声なく促す。係が動き、皿が卓へ乗る。香草の容器が添えられ、8日目の午餐会が静かに組み立てられていく。


 嫌だった。


 こんな場面をもう1度見るのは、本当に嫌だった。銀の道具の光り方も、皿の並びも、当日と同じ臭いがする。あの日、私は間に合わなかった。更新が届いていないことに気づけなかった。守れると思っていた食卓で、大使は静かに食具を置いた。その後に届いた外交文書の冷たさは、今でも帳面の中にある。私だけの記録として、誰にも見せていない頁だ。


 怒りか、悲しみか、どちらでもなかった。ただ、もっとうまく守れたはずだという感覚だけが、指先に残り続けている。その感覚を引き連れたまま、今日もここに立っている。


 裁きの場でこんな場面を見ているのが夢のようだ、と思う間は過ぎた。今はただ、順番通りに動く。


 けれど、今日この感情は要らない。


 怒りで示せないものは、順番で示す。


 私は呼吸を1つだけ落ち着けてから、静かに名代へ向いた。


「事故日と欠落日が一致しています。写しが現場へ届いていれば、係は正しく確認できました。1行が抜けていたから、確認の鎖が切れました」


 名代が写しと台帳を並べ、無言で頁を繰る。


 その指が止まった瞬間、部屋が静かに理解する。


 蒸し返しに見えた再現が、最も冷たい証拠提示に変わっていた。これは感情の整理ではない。因果の提示だ。感情で訴えようとしたものは、すでに別の部屋で死んでいる。今残っているのは、写しと台帳の差だけだ。言い訳できる余地が、1つずつ消えていく。失敗ではない。切られたから切れた。そこだけが、今日この場で通さなければならないことだった。


「更新日も、少しだけ遅すぎます」


 神官補が低く付け足した。


 私は頷かなかった。


 頷けば説明になる。その話は今日ではない。今日の結論より先に出せば、今日の結論が霞む。違和感は飲み込んで、場の流れへ戻す。


 私は再現卓の端へ手を置き、最後にもう1度、当日の1行を指した。


「事故ではありません」


 言い切る。


「確認を切った結果です」


 名代の筆が走る。書記官が写しへ日時を入れる。給仕長が静かに道具を戻し始める。誰も喋らない。それが、場に届いた手応えだ。


 廊下へ出ると、リュシアンが扉脇に立っていた。再現の間、中へは入ってこなかった。ここで彼が何かを足せば、記録に辺境伯の介入という注記が入る。それは私の言葉を、別の重さへ移す。だから彼はただ立っていた。廊下の端で、余計な声が入らないように。それだけで場が保たれるなら、充分に戦力だ。


「半日で足りますか」


「足ります」


 短く返す。廊下の空気が、裁きの場より1段だけ低い。足元が少し現実へ戻る。


 反証提出まで残り半日。今夜中に、紙ごと崩す。


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