第81話 感情の沼から引き上げられるか
裁きの場には、怒りの匂いより先に、紙の匂いが満ちていた。
蝋の熱がまだ少しだけ残る封、乾ききったインク、真新しい羊皮紙の粉っぽさ。人はこんな日に悲鳴や泣き声を想像するのだろうけれど、実際に場を支配するのはもっと静かなものだ。紙が擦れる音、椅子の脚が床を引く音、そして、誰が最初に何を差し出すかを待つ、じりじりとした沈黙。
私は証拠束のいちばん上に置いた一枚を、指先で押さえた。
薄い。軽い。これ1枚では、誰も傷つけられないように見える。
けれど、順番を戻すには十分だ。
こういう日は、怒りより先に段取りが動く。どの一枚を最初に差し出すか。裁定席がどの順で目を向けるか。時刻と紙質と綴じの張り方が、人の感情より先に場を決める。8日目から続いた崩壊は、そういう細さのひとつひとつを切り落とすことで起きた。だから今日は、その細さから戻す。
「お顔色が優れません」
若い書記官が、気遣うように声を落とす。私は頷き、けれど礼だけで済ませた。顔色が悪いのは今に始まったことではない。王宮を出た日も、迎えを待った夜も、証人が消えた昨日も、たぶん同じくらい青かった。ただ今日は、青いまま立てる。
向こう側の席に、人が増えていた。
法務係、付き添いの貴族、それから――感情的な訴えという言葉を最初から用意している顔が、いくつも並んでいる。
昨夜から想定していた手口だ。元婚約者の恨みではないか、と切り出すだろう。傷ついた気持ちはお察しする、と続けるだろう。そうやって証拠より先に感情を置き、裁きを可哀想な女の訴えへ落とそうとするだろう。
だが、彼らの言い回しに、私はひとつ気づいていた。
揃いすぎている。
席に並んだ全員が、まるで同じ文面を手渡されたように、同じ種類の表情をしていた。袖口を直す癖、反論の前に一呼吸置く間の取り方、それは感情的な訴えですという文言を引き出す瞬間の目の向け方。どれもが、あまりに揃いすぎていた。
私はその均一さを、静かに覚えた。
台本は必ず、どこかで逸れる。
向こうの法務係が、ぶ厚い束を机に置く音がした。体積でちゃんとしているを演じるつもりだろう。
分かりやすい。だから崩しやすい。
「前に出なくていいのですか」
今度は別の声。低く、落ち着いている。振り向かなくても分かった。
リュシアンだ。
「いいえ」
「分かった」
たったそれだけで済むのが、この人の良いところだ。
辺境伯が口を挟めば場の空気は変わる。庇う形を取れば、あちらは必ず言うだろう。女1人では立てなかった、と。今日は、それをさせるわけにはいかなかった。私の言葉が、私の順番で通る形でなければ、ここへ来た意味がない。
リュシアンは扉脇に下がった。
その立ち位置だけで、余計な口出しが入らない空気になる。圧でも助言でもない。ただ、場を荒らさないための保護だ。水杯の温度を測るような静かな世話が、こういう形で出ることに、私はもう驚かなくなっていた。
視線を証拠束へ戻す。
そのとき、手が止まった。
若い書記官が、証拠を逆順に並べ直していた。
照合控えがいちばん上に来ている。最初に出すべき提出時刻の一覧が、いちばん下に沈んでいる。
私は無言でその束を引き取り、端から順番に戻した。1枚、2枚、3枚。手が覚えている順番を、指先がそのままなぞる。書記官は耳まで赤くなり、すみませんと口の形だけで謝った。こんなときでも、身体の方が先に動くのが少し可笑しい。
「緊張するのは悪いことではありません」
小声で言うと、書記官はさらに一段赤くなった。それから、ほんの少しだけ、背筋が伸びた。
この子は、怖くても書き残す。それだけで十分だ。
裁定席の人々が着席する気配が広がる。
場が静まり始めた。
反対派の法務係がもう一度こちらを見た。何を探しているのかは分かった。怒りでも、涙でも、何か1つ引き出せれば、そこから感情論へ持ち込める。崩れかけた顔が見たい。隙を探している。
私は視線を受け止め、それから証拠束へ目を戻した。
今日は、引き出せるものが何もない。
開廷を告げる杖音が鳴る。
裁定席が視線を上げる。
私は呼吸を1つだけ整え、最初の一枚を持ち上げた。
今日は恨みを説明しに来たのではない。
8日目から続いた崩壊の、順番を戻しに来たのだ。
「提出書類の確認から始めます」
静かに言った。
「裁定席のご確認を、お願いします」
若い書記官が控えを広げ、提出時刻の照合を始める。声は震えているが、数字だけは正確だ。1枚目。2枚目。関連資料。補足陳述。
読み上げられるたびに、場が少しずつ変わっていく。感情の応酬ではなく、紙と時刻が先にものを言い始める。
反対派席の空気が、わずかに固くなった。
紙の話になると、人は姿勢で分かる。崩れた言葉より先に、肩が変わる。
書記官の声が、半音だけ落ちた。
「……こちらの控えが」
一瞬だけ、言葉が切れる。
「提出時刻が、合っていません」
場に、静寂が落ちた。
向こう側の法務係が、袖口を直す手を止めた。
私は証拠束の端を揃えたまま、次の一枚へ指先を伸ばした。




