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「連載版」「献立なんて誰にでも組める」と婚約破棄された宮廷の配膳記録官ですが、帳面72冊が止まったら王宮の食卓も止まるようですよ  作者: 夢見叶
第5部 監査・交渉・逆転加速 第15章 証人消失──まだ手が動く

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第80話 逃げない一行/逃げ道の扉

 夜明け前の文字は、少し痩せる。


 眠気のせいではない。余計な気持ちが削げるからだ。怒りも、悔しさも、言ってやりたかったことも、夜明け前に紙へ置くとだいたい細くなる。私はその細さが嫌いではなかった。細くなった言葉だけが、公の場で折れにくいことを知っている。


 机の上の最終写しへ目を落とす。昨夜から動かしていない紙だ。事故、欠落、偽造、責任線。順番はもう決まっている。それでも夜明けになると確かめたくなる。隙間が増えていないか、形が崩れていないか。紙は動かない。それでも怖い。


 一行だけ書き足した。冒頭に置く、最初の文だ。


 事故の発生は偶然に見えること。欠落は偶然ではなく、同じ箇所に寄っていること。偽造は内容ではなく手順に仕込まれていること。責任は、その手順を通した側へ集まること。


 怒っている。それは本当だ。でも怒りを先頭に立たせたら、今日は負ける。最初の一行が感情になった瞬間、残り全部が言い訳の顔になる。それを何度も見てきた。だから怒りは後ろに置く。最後に必要なら、そこで使えばいい。


 紙の角をきっちり揃えて、ゆっくり息を整えた。


 夜が白んでくるころ、書記官が封蝋机の横へやってきた。両腕に最終写しの束を抱えている。前髪が跳ねて、目の下が赤い。徹夜だったのだろう。


「確認欄、全部潰しました」

「余白は」

「詰めました。これ以上は誰も潜り込めません」


 私は一枚取り上げ、右端の欄を指先で押さえた。かつてはここに不要な確認欄が紛れ込んでいた。作成者でも照合者でもない誰かが手を入れられる、逃げ道のような空白だ。今は埋まっている。偽造が通る道を先に掃いてあった手順が、ここで初めて封じられた。


「これでいいです」


 書記官がほっとした顔をして、また別の束を差し出した。


「あの……どれが最重要でしょうか。重要順、最重要順、本当に最重要順と全部書いてみたんですが、自分でも分からなくなってきて」

「全部です」

「全部が……最重要ですか」

「順番どおりに出すから意味があります。一枚だけ特別に重くしたら、残りが軽くなる。同じ紙だからです」


 書記官は何度か首をかしげてから頷いた。分かったかどうかより、手が動いているほうが大事だった。書き直し痕だらけの札束を抱えて、彼はまた机へ向かう。


 リュシアンが部屋の端に立っていた。いつから来ていたのか、気づかなかった。革手袋を外して、写しの束を片手で押さえている。窓から射し込む白い光の中で、その横顔は寝不足なのかそうでないのかも判別できない。


「まだ崩れていないか」

「崩れていません」

「なら、いい」


 それだけで、体の奥の何かが少し落ち着く。慰めではない。事実の確認だ。この人の言葉はいつも、そういう温度で来る。


 神官補が側廊下に現れたのは、それから間もなくだった。白い祈祷紐を指で一度撫でてから、丁寧に一礼する。


「控室へは脇扉からも入れます。人目を避けるなら、そのほうが……」

「使いません」


 リュシアンが先に答えた。私が口を開く前に、静かに、迷いなく。


「正面から入る」


 神官補の視線が一瞬だけ泳ぐ。言い返す言葉は出なかった。


「……重みが落ちないよう、提出順をお守りください」

「分かっている」


 神官補が踵を返す。続いて侍従が一歩前に出た。


「こちらが正面扉でございます」


 重々しい一礼と同時に、脇扉がひとりでに開いた。掃除係が大きな柄杓を持ったまま出てきて、こちらを一瞬だけ見渡した。誰も何も言わなかった。神官補が遠くで静かに咳払いをした。


 リュシアンの口元がほんの少しだけ動いた。笑ったかどうかも分からない動き方だったが、私はそれを見てしまった。


「脇から入ると」と私は言いかけた。「何かあったと、見られますか」

「それだけじゃない」


 彼がこちらを向く。


「逃げ道の多い建物で、脇を選んだ側には理由がある。相手はその理由を使う。なら、正面に先に立てばいい」


 胸の奥で何かが、すっと落ちた。脇扉を避けるのは格好をつけるためではない。正面から入ることが、そのまま相手の逃げ道を先に塞ぐことになる。私が考えていた理屈と、ぴったり同じだった。


 この人は同じ正面を見ている。


 それが分かった瞬間、視界がうっすら揺れた。泣きたいわけではない。ただ、昨夜から抱えていた何かが、やっと形を持った気がした。怒りも疲れも、廊下で触れなかった手のことも、全部がここで整っていく。


「先に立つのは、私じゃありません」


 私は小さく言った。


「分かっている」


 彼の声は低く、静かで、揺れがない。


「先に立つのは記録だ」


 その言葉を聞いた瞬間、息が一度だけ止まった。支えてもらうより、同じ側に立ってもらうことのほうが、ずっと長く立っていられる。それを昨夜気づいた。そして今朝、この言葉で確かめた。


 大扉の前に立つ。石床は朝の冷えを溜めたままで、足元から白くなっていく感じがした。こういう場所では、声よりも先に紙が勝つ。怒鳴っても叫んでも、最初に置いた一行が場を決める。


 大扉の向こうには、感情へ逸らそうとする声が待っている。責め、噂、都合のいい物語を積み上げて、こちらの証拠を感情論に見せようとする手が待っている。でも今日は、それより先に置く順番がある。


 逃げ道はいらない。


 必要なのは、相手の逃げ道をなくす一行だけだ。


 護衛が合図し、大扉がゆっくり開く。


 逃げ道の多い建物で、私たちは正面の扉を選んだ。


 では相手は――今日、どの扉から逃げるつもりなのか。


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