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「連載版」「献立なんて誰にでも組める」と婚約破棄された宮廷の配膳記録官ですが、帳面72冊が止まったら王宮の食卓も止まるようですよ  作者: 夢見叶
第5部 監査・交渉・逆転加速 第15章 証人消失──まだ手が動く

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第79話 言いかけて、手をほどく

 勝てる形が見えた夜ほど、気は緩まない。


 ひとつでも気を抜けば、そこがちぎれる。証拠鎖は鉄ではなく紙でできているから、強く引けばむしろ切れるのだ。だから私たちは、勝ち筋が見えてからのほうが静かだった。口数が減り、動きが揃い、次に確かめるべきことだけが手元へ来る。前室の灯りの下で、その静けさが夜になっても続いていた。


 長机の上に、最後の束が並ぶ。事故の写し、欠落の控え、封蝋の照合、確認欄の摘要、責任線の写し。私は20頁の索引を広げ、一項ずつ突き合わせた。72冊分を圧縮した薄くて重い紙だ。ここまで来るのに何人の手を借りたか分からない。けれど今夜は、もう迷う箇所がなかった。


 リュシアンが束を持ち上げ、私の指す位置へ無言で置く。条文の抜粋は右、証人控えは左、封蝋照合は下。彼の手が迷わないたびに、何かが少しずつ正しい場所へ収まっていく。革手袋の指先が止まる位置は、もう言わなくても伝わる。いつからそうなったのか、数えかけて、やめた。今は数える時間がない。


「これで切れない」

 私が言うと、向かいのリュシアンが小さく息を吐いた。

「ああ」

 それだけなのに、長く張っていたものが少し緩みそうになる。


 危ない、と思った。


 安堵は、だいたい声より先に手へ出る。茶杯を寄せるとき、紙を渡すとき、相手の指先へ触れてもいいような気がしてしまう。そういう瞬間がいちばん危うい。ここまで来て、私たちの近さを「私情」という札で括られたら、明日の場に余計な泥を持ち込む。紙束より先に、そちらが崩れる。


 私は索引の角をきっちり揃えてから、息を一度整えた。感情を段取りへ逃がす癖だと、もう自分で知っている。それでも手が動く間は、前へ進める。


 ちょうどそのとき、侍従が茶を運んできた。湯気の立つ2つの杯が机へ置かれる。私とリュシアンが、ほぼ同時に手を伸ばした。どちらも、まったく同じ杯へ。気づいた瞬間、同時に引っ込める。


 沈黙が落ちた。見ていた侍従だけが、微妙な顔で目を逸らした。


「続けましょう」

 私が書類へ手を戻すと、リュシアンも無言で頷いた。革手袋を外し、次の控えを開く。その素直な速さが、言葉より早い返答だった。


 少しして、リュシアンが侍従を呼んだ。立会い順を差し出させ、2箇所だけ入れ替えを命じる。護衛の重なりを解いて、2人きりになる刻限を潰す。誰が見ても、公の手順で動いているように見えるよう、導線を組み直す。


「それで問題ない。続けてくれ」


 侍従が一礼し、詰所へ戻った。


 その判断が正しいと分かるからこそ、胸が少し痛い。正しいことと、惜しいことは、こんなにも近くにある。


 作業がひと区切りついたころ、私たちは回廊へ出た。石壁が夜の冷えを閉じ込めていて、吐く息が白くほどける。前室の灯りと離れた分だけ、あたりが静かになる。


 リュシアンが何か言いかけ、やめた。その代わり、ほんの一瞬だけ手が伸びた。右の手だ。私も反射みたいに指先を浮かせる。左手は動かなかった。公の前でそこだけは守る、今夜の限界がそこにあった。


 触れれば、たぶん落ち着いた。


 でも、触れてはいけない。


「今つなぐと」

 私のほうが先に口を開いた。

「明日、それを使われます」


 彼の手が止まる。右の拳がわずかに強く閉じた。

「分かっている」

「……なら」

 言葉が一度、喉で引っかかった。

「ほどくなら、今です」


 別れの台詞みたいに聞こえると分かっていた。けれど彼は顔をしかめず、静かに頷いた。


「逃がすためじゃない」

「はい」

「逃げ道をなくすために、だ」


 その言葉に、胸の奥が熱くなる。泣きたいわけではない。嬉しいのでも、苦しいのでもない。ただ、明日この人と同じ側に立てるのだと、ようやく実感した。支えてもらうことより、同じ正面を向いてもらうことのほうが、ずっと長く立っていられる。私はそれを今夜、初めて言葉にできた気がした。指先から余分な力が抜けた。それでいい。今夜はそれでいい。


 石段を2人で降りる。灯りは少なく、足音だけが同じ間隔で石へ落ちた。暗がりの中でも、彼の歩幅は乱れない。紙束を持っても剣を構えるときみたいに体幹がぶれない。その背中と、今夜だけは並んで歩ける。明日からはまた、公の距離へ戻らなければならない。証拠束を運ぶ手と、整理する手。それが明日の2人だ。だからこそ、この歩調が惜しかった。


 索引が胸に当たる。薄くて重い、72冊分の圧縮だ。その重さが今夜だけ、悪くない意味で感じられた。


 嫌なことは、いつも音より先に順番で来る。だが今夜だけは、順番がこちら側にある。それだけで、次の一歩が出た。


 控室の前で足が止まった。2人の間に扉が1枚ある。そこを過ぎれば、次に顔を合わせるのは明日の朝だ。公の顔で、束を持って、神殿へ向かう朝に。私は索引を胸へ抱き直した。言うべきことは何もない。全部、紙の上に置いた。


 リュシアンが低く言った。

「終わったら――」


 そこで、言葉が切れた。


 代わりに、握っていた右の拳だけが、ゆっくりほどけた。


 私は、その手を見た。続きを待った。けれど彼は何も言わなかった。言いかけたものを、丁寧に戻したのだと分かった。今は言えない。言ってしまえば、明日の場へ持ち込むことになるから。それが分かるから、私も聞かなかった。


 扉の向こうは暗い。


 夜だけが、ここで先に閉じた。


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