第78話 誰が「偽造の手順」を整えた
封蝋の欠けは、小さい。
けれど一度気づいてしまえば、その小ささはもう無視できない。誰かが爪で引っかけたのか、束を落として割れたのか、あるいは、封を開いて閉じ直したのか。欠けは同じ形に見えて、理由だけはまるで違う。だから私は、欠けを見るときほど人の言葉を信用しない。
照合机の上に、提出前の写しと、保管庫から戻した写しを並べる。蝋の色は近い。刻印も似せてある。雑に見れば見分けはつかない。だが、右端の縁だけが薄く欠けていて、そこへもう一度押した痕が重なっていた。
「開封ですか」
照合官が問う。
「いいえ」
私は首を振った。
「開けたなら、欠けは散ります。これは押し直しです。最初の封を半端に外して、差し替えたあと、元の欠けを隠しきれずにもう一度押している」
隣でリュシアンが、別の束をこちらへ寄せる。彼の指が止まる位置は、もう私とほとんど同じだった。封を見る順、紙を見る順、摘要欄へ目を落とすタイミング。その揃い方に、ふいに胸が熱くなる。こんなところで、と思うのに、嬉しさは止めにくい。
「こちらもです」
彼が示した摘要欄には、本来いらない確認欄が1つ増えていた。小さな空白だ。だがそこがあるせいで、作成者でも照合者でもなく、「途中の誰か」が手を入れられる。
「……逃げ道ですね」
「ええ」
照合官がここで咳払いをした。
「実は封蝋の照合については、私も以前から一家言ありまして。正しい押し直しとは本来こういう手順で——」
自信に満ちた声で語りはじめながら、彼は机の傍らに置いた昼食包みの蝋紙へ手を伸ばし、ぺりぺりとはがそうとした。
はがれなかった。
指先が端をつまむたびに、また元通りに張り付く。彼は台詞の途中で視線を落とし、3度試みて、4度目に「……失礼」とだけ言い、そっと包みを机の下へ押し込んだ。
私は顔を動かさなかった。リュシアンも動かなかった。
書写室へ移る。
書記官が広げた旧書式と、法務机から借りた新書式を重ねる。余白の幅が、ほんの少し広がっている。行頭の寄せ方が、ほんの少し内へ入っている。封の置き位置が、ほんの少し右へずれている。どれも1枚だけ見れば気づかない。だが束で見れば、全部が「差し替えやすい向き」へ揃っている。
「改定の前から、こうなる目算があったんです」
私は法務係へ向けて言った。
「書式の改定は、抜け道を広げる口実でした。追加された確認欄に、作成者でも照合者でもない誰かが潜り込む」
若手書記官が手元の札を「最重要」から「本当に最重要」へ書き換え、そのまま首をかしげた。私は紙の角をきっちり揃えてから、静かに一言だけ告げた。
「大事さで書かないで。順番で書いてください」
「……はい」
提出控え机へ戻る。
法務机から引き出した証拠と、最後の証人の証言を突き合わせる。封蝋の欠けは右端。押さえた方向は昨日の証言にある通り、右から。「その人だけは、右から押していました」という声が、耳の奥で繰り返される。
押し直しは右から。欠けは右端。照合欄の余白は右側が広い。そして保護担当の署名の払いも、最後だけ右へ急く。
偶然でこれだけ揃う確率は、ない。
「再現できます」
私は写しと封の配置図を並べた。リュシアンが革手袋を嵌めた手で端を押さえる。
「押し直しの順番を戻すと、こう動いた手が見えます。同じ癖を持つ人間が、封だけでなく書式にも先に触れています。これは思いつきじゃない。仕込みです」
言葉にした瞬間、散っていた違和感が一本に束なった。
最後の証人を消す必要があったのも、この順番を見られたくなかったからだ。人の口を塞いだだけでは足りない。手順そのものが、口より雄弁だから。
回廊へ出た。
石壁の冷たさが指先に伝わる。私は立ち止まり、頭の中で全部を一本の線へ繋いだ。封蝋の欠け。書式の余白。確認欄の追加。証人の消え方。配食札の欠落。そして署名の払い。
「人を偽装したんじゃない」
声に出すと、靄が晴れた。
「通り方を、偽装したんです。悪い人が通りやすい道だけを先に掃いてある。だから今まで誰も止められなかった。正しい人間が正しく動いても、道がそう作られていれば、間違いが通る」
リュシアンが振り返る。低い声で言う。
「明日は、そこから刺す」
「はい。名より先に、道を」
短く頷かれた。
小会議机で最後の確認をする。事故、欠落、書式の偏り、封蝋の痕、責任線。感情の話は一度も出なかった。出す必要がなかった。順番が全部を代わりに語るから。
20ページの索引を閉じながら、ふと思う。
手順は見えた。道も見えた。ならば、この道を「わざと通る形」に整えた主は、誰だ。
名だけが、まだ、空白のままだ。




