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「連載版」「献立なんて誰にでも組める」と婚約破棄された宮廷の配膳記録官ですが、帳面72冊が止まったら王宮の食卓も止まるようですよ  作者: 夢見叶
第5部 監査・交渉・逆転加速 第15章 証人消失──まだ手が動く

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第76話 守りの穴を突いたのは誰

 席は埋まっているのに、人だけがいなかった。


 最後の証人の控室前には、入室札が掛かっていた。時刻も、立会い名も、控え番号も揃っている。なのに扉を開けると、椅子だけがきれいに引かれていた。倒れた形跡も、争った跡も、置きっぱなしの荷もない。消えたというより、最初からいなくていい形に整えられている。


「いつからだ」

「少なくとも、朝の配食のあとには……」


 護衛の返答は途切れた。責められる前から責められている声だった。リュシアンの気配がひやりと沈む。怒る前の温度だ、と私は知っている。


 私は入室札を手に取り、縁を指でなぞった。角が几帳面に合っている。こういう整いすぎた紙は、いつも後ろに何かを隠している。紙の角をきっちり揃えてから息を整え、それから扉を閉めた。


 宿舎の扉に傷はなかった。蝶番も、窓の留め金も、壊された痕はない。床に引きずった跡もなく、椅子の脚は元の位置に揃ったままだ。強引に攫ったのなら、こうはならない。誰かが出て行ってもおかしくない刻限を選んで、人1人分だけ順番から抜いたのだ。


 リュシアンが低く言う。

「暴力の線は薄い」

「はい」


 私は控室の隅まで目を走らせた。枕元に水差し、書き物机に消しかけの蝋燭、備え付けの外套掛けに何も下がっていない。身の回りの荷もない。身一つで出たのか、荷ごと移したのか。どちらにしても、時間をかけた作業だ。


「空いていたんです、ほんの少しだけ」


 保護担当がぽつりと言った。袖口だけが妙に整っていた。護衛の配置が薄くなる刻限の話だった。

「本人の判断で離脱した可能性もあるかと。手順どおりです」


 私は視線を向けた。手順どおりと言えば言うほど、その手順の隙間を先に把握していたことを自ら教えている。


 嫌なことは、いつも音より先に順番で来る。


     ◇


 配食机へ向かうと、神殿侍者が朝の配食控えを差し出した。木の札が12枚、それぞれに受領印が並んでいる。最後の証人の分だけ、受領印だけがあり、札そのものがない。


「受領印はあります」


 保護担当が横から口を開く。

「食事は届けられました。本人が受け取ったとすれば……」


「受領印の順番を見てください」


 私は机の上へ札を並べ直した。

「通常は、食事を受け取ってから印をつけます。先に印がついていて、札そのものがないなら、受け取りは成立していない。これは欠けた印ではなく、欠けた順番です」


 胸の奥が冷えた。空白は、いつだって偶然の顔をして現れる。けれど本当に偶然なら、こんなふうに綺麗には欠けない。


 神官補が白い祈祷紐を指で一度撫でてから言った。

「この宿舎は迷いようがありません。経路は1本ですから、侵入経路の特定も容易かと思われます」


 言い切った直後、彼は確認のために廊下の角へ向かい――同じ角を2度曲がった。護衛の1人が目を逸らした。リュシアンの革手袋の指先だけがわずかに動く。その場の誰も、強く笑えなかった。


     ◇


 裏廊下へ出る。荷運び用の細い導線は、正面の石廊下より半歩暗い。人目は少なく、足音は壁へ吸われる。私は略図を広げ、護衛の立ち位置と配食机の位置を指先でなぞった。


「ここで札を受け取って、こっちへ曲がれば、正面からは見えない」

「見張りはいたはずだ」

「いるからです」


 私は顔を上げた。


「見張りがいる場所は、安心してここは通ると思われます。抜くなら、その手前か、そのあとです。護衛が薄くなる刻限さえ分かれば、外から強引に引き出す必要はない。内部の手順が先に読まれていたなら、わざわざ力は要らない」


 リュシアンが略図を見つめ、拳を一度握ってほどいた。怒りを飲み込む形だと知っている。彼が前に出ない代わりに、私は言い切った。


「警護が薄かったのではありません」


 1拍だけ止めた。


「薄くなる刻限だけを、正確に使われた」


 沈黙が廊下に落ちた。失態ではなく、設計だ。現場の配置を知っている者が、先に逃げ道を整えた。人を攫ったのではない。人が消えても不自然に見えない順番を、先に選んでいたのだ。


     ◇


 保管小部屋には、証人用の予備外套が吊ってあった。数を数える前に、1着足りないと分かる。衣擦れの跡だけが新しかった。


 消えたのは証人だけではない。消えるための準備が、先に置かれていた。


 若い書記官が後ろから小走りでついてきて、書き換えだらけの札の束を持ち上げた。

「あの……これが最重要で……いえ、こっちかもしれなくて……」


「後で」


 私は振り向かずに答えた。書記官が首をかしげながら黙る。衣擦れの跡に指を近づけた。急いで取り出した形だ。前日から準備されていた、と見て間違いない。


     ◇


 署名机へ戻ると、保護担当の受領控えが1枚残っていた。リュシアンが無言でそれをこちらへ寄越す。私は受け取り、淡いインクの署名を見た。


 最後の払いだけが、急いでいる。


 目を細めた。


 これは何度も見た形だ。改竄の写しで、何枚も、何枚も確認してきた、あの筆癖と――払いの角度が、同じだった。


 胸の奥で何かが、硬く噛み合う。


 震えを止めたくて、紙の角をきっちり揃えた。うまく合わない。もう一度揃えてから、ゆっくり息を整えた。長く追ってきた線が、ここへ来て一つの輪郭を持ち始めた。嬉しくはない。ただ、冷たい確信だけがある。怒りもある。証言を組みかけていた人間を、こんな手順で抜き取る怒りが。けれど今じゃない。今は、この払いの癖が次へ繋がるかどうかだけを見る。


 保護担当は空白を自然な離脱として処理しようとした。けれど彼の署名が逆に言っている。この人間は、手順の中の空白を知っていた。知っているだけでなく、その空白を残す側にいた可能性がある。


「まだ崩れていない」


 リュシアンが低く言う。言いかけて、止まった気配がした。拳が一度強く閉じ、ゆっくりほどける。


 私は頷いた。まだ崩れていない。だから次を続ける。


 けれどこの払いの癖を、誰から仕込まれたのか。あるいは、誰と同じ机で覚えたのか。


 隠れたのか、隠されたのか。けれど欠け方だけは、誰かの癖みたいに揃いすぎていた。


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