表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「連載版」「献立なんて誰にでも組める」と婚約破棄された宮廷の配膳記録官ですが、帳面72冊が止まったら王宮の食卓も止まるようですよ  作者: 夢見叶
第5部 監査・交渉・逆転加速 第15章 証人消失──まだ手が動く

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

75/93

第75話 残り半日、順番を間違えるな

 紙は、置く順番で顔が変わる。


 正しいことが書いてあっても、最初に置かれた一枚が弱ければ、そのあとの十枚は弁解に見える。逆に、最初の一枚が刺されば、相手の言葉は全部あと追いになる。私はそれを宴席でも、監査でも、食卓でも見てきた。人は中身より先に、順番で飲み込まれる。


 宰相府の前室には、紙の乾いた匂いが満ちていた。窓の外はまだ白く、昼には遠いのに、机の上だけがもう締切の色をしている。証拠束、写し、証人札、照合控え、条文の抜粋。どれも重要で、どれから先に置くかで明日の場が変わる。


「まだ間に合う」


 私の呟きに、隣のリュシアンが視線だけを寄越した。慰めではない声だった。事実として、まだ崩れていないと告げる声音だった。


「正午までです」

「分かっている」


 若い書記官が、腕いっぱいに抱えた紙束を机へ下ろした。前髪が寝不足で跳ねていて、指先はすでに黒い。


「量が多いものから順に並べますか」

「だめです」


 思ったより強い声が出た。部屋の空気が一瞬だけ止まる。私は息を整え、いちばん上の束へ手を伸ばした。


「多いものを先に出すと、相手に説明が長い側の顔を渡します。先に置くのは事故です。その次が欠落。最後に改竄。順番を逆にすると、明日こちらが追う側になります」

「……同じ紙でも、ですか」

「同じ紙だからです」


 書記官は大きく頷き、手元の束の札を引き抜いてペンを走らせた。「最重要順」。少しして首をかしげ、隣の束にも「本当に最重要順」と書き足した。さらに悩んで最初の束に戻り「やっぱり重要順」と修正し、3色の優先順位が机に並んだところで自分の手が止まった。本人がいちばん困惑した顔をしていた。私の隣でリュシアンがちらりと視線を落とし、音もなく目を逸らした。


「事故・欠落・改竄の3枚で足ります」


 書記官が「は、はい」と素直に頷き、今度は迷わず書き直した。


 私は二十頁の索引を開く。七十二冊の癖を無理やり一冊に押し込んだような、薄くて重い紙だ。ひとりで抱えていた頃のやり方なら、とうに間に合わなかった。何人の手を借りてここまで来たか、数える余裕は今はない。


 リュシアンが束を持ち上げ、私の指す位置へ無言で置く。条文の抜粋は右、証人控えは左、封蝋照合は下。彼の手が迷わないたびに、胸の奥の焦りが少しずつ整っていく。革手袋の指先が止まる位置は、もう言わなくても伝わる。いつからこうなったのだろうと思いかけて、やめた。今は数える時間がない。


 神殿提出の窓口で、白い祈祷紐を腰に結んだ神官補が書類を受け取る前に紐を指先でひと撫でし、口を開いた。


「証人順に沿わない証拠は、重みが落ちます」


 硬く、正確な声だった。親切でも意地悪でもなく、ただ手順の番人としてそこに立っている。


「証人が先に立ち、証拠がそれを支える形になっていなければ、提出上の瑕疵が生じます。順に沿っていますか」

「沿っています」


 私は短く答えながら、索引の該当頁を開いた。証人の出廷順の写しを受け取り、最後の証人の欄を確認する。封蝋照合の束と噛み合っているかを確かめ、折り目をつけた。人と証拠が正しい順で組み合わさって初めて、証言は重みを持つ。分かっている。分かっているからこそ、今日の午前を使っている。


「順を守るなら、この窓口から提出してください。順に先んじるものは受け取れません」


 その言葉は変わらなかった。融通がない分だけ、ここを通れば揺るがない。そういう硬さは、信頼できる。


 窓口を離れ、証人の控室前を通りかかると、廊下の板張りに薄い入室札が掛けられていた。護衛がそっと一礼する。


「最後の証人の入室札、控室の前に置いてあります」


 名前、時刻、控室番号。整っている。整いすぎていた。私は足を一瞬だけ止めた。何が引っかかったのか、すぐには分からない。音でも色でもなく、何かが正しい順序より先に置かれているような、そういう気配だった。


 でも今は、確かめる時間がない。


 回廊の壁際へ出て、私は事故連鎖一枚図を広げた。索引と重ね、提出順を再設計する。明日の場で最初に見せる一枚はどれか。次に何を重ねれば、相手が追う側に回るか。頁を繰りながら指で位置を確認していくと、隣でリュシアンが束を押さえた。革手袋の指先が、私の指す頁の端を静かに固定する。


 胸の奥に、何かが灯った。


 温かい、と思ってから、喉の奥で押し込めた。こういう場所で、こういう感情を持ち込まない。それは決めていた。でも押し込めるのは感情だけで、この人と並んで同じ紙を見ているという事実まで消すことはできなかった。7日前に来訪の名を読んだ夜から、ずっとそう分かっていた。正午になれば提出が終わる。明日には裁きが始まる。その前に、この静かな並び方は終わる。だから今だけ、と思った。今だけ、この頁を一緒に見ていることを、仕事の一部として覚えておく。それだけでいい。


「一人欠けても崩れない形にします」


 リュシアンが静かに顔を向ける。


「可能か」

「証人順を固定して、証拠の側で補います。照合控えを前へ出せば、仮に証人が一人動いても、封蝋の照合だけで筋が通ります」


 彼が何か言いかけ、止めた。左の拳がわずかに閉じ、ゆっくりほどける。それだけだった。言葉にならないまま、横に並ぶことを選んだ。私はそれで十分だった。


 提出机の前で最終確認に入った。事故の束が先頭に立つ。欠落の束がそれを引き継ぐ。改竄の束が最後に刺す。条文の抜粋は右、証人控えは左、封蝋照合は下。紙の角をきっちり揃えてから、息を整えた。


 整っている。これで正午までに出せる。


 そのとき、侍従が控えめに机へ近づき、薄い札を端に置いた。


「最後の証人の入室札、こちらへ置いておきます」


 名前、時刻、控室番号。整っている。


 整いすぎて、嫌な気配がした。


 私は札を見下ろしたまま、指先に力を入れた。


 嫌なことは、いつも音より先に順番で来る。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ