表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「連載版」「献立なんて誰にでも組める」と婚約破棄された宮廷の配膳記録官ですが、帳面72冊が止まったら王宮の食卓も止まるようですよ  作者: 夢見叶
第5部 監査・交渉・逆転加速 第12章 空白発見──保管庫が狙われる

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

56/57

第56話 猶予は1日、鍵簿を洗え

 明日、棚整理。

 その1行を聞いた瞬間、机の上の紙束が急に重くなった。法務係は何でもない顔で言ったが、意味は簡単だ。明日になれば棚の並びが変わる。前詰めの痕も、差し戻し箱の置き順も、全部「整理」の名で塗り潰される。


「猶予は1日です」

 私が繰り返すと、若い書記官が息を呑んだ。

「1日で全部を?」

「全部はやりません」

 私はそう答えて、鍵簿を手前に引いた。

「1本線になる部分だけ洗います」


 追い詰められたときほど、人は全部を抱えたがる。けれど全部を抱えれば沈む。必要なのは、抜けた1刻へ届く線だけだ。


 鍵簿を開く。

 返却欄、時刻、署名。昨日気になった空白の前後から始める。筆圧。時刻の詰め方。桁の癖。筆を返す角度。急いだ人間の字は、整えようとしてかえって似る。丁寧なふりをした乱れは、正面から見るより並べて見た方が早い。

 私は別頁の署名欄と、数字を1行ずつ引き合わせていく。


「7つ半の返却欄だけ、字の向きが違います」

 若手書記官が紙の端を指した。比べてみると確かに、その1刻だけ筆が右へ傾いている。急いでいた。あるいは、急いで見せないようにしていた。

「横に写しを」

「はい」

 書記官が別紙を引き寄せる。彼の手は速い。教えた通りをなぞるだけでなく、必要を察して動く手になってきた。


 向かいでは、リュシアン様が封番号の一覧を作っていた。余計な言葉を挟まず、飛んだ番号だけを先に抜いていく。私が鍵簿の7つ半の欄を指でなぞった瞬間、彼が1枚の紙をこちらの視界へ置いた。飛び番号の一覧。ちょうど今必要なものだ。


「削るな。寄せろ」

 短い声が落ちた。

「はい」

 返事をした自分の声が、少しだけ軽かった。


 夜までに洗うべきなのは、犯人の顔ではない。手の癖でも、肩書きでもない。抜かれた1刻に集まる紙だけ。

 飛び封番号と、字の傾いた返却欄と、前詰めの棚札。3つが同じ1刻を指すなら、それで足りる。1日しかないなら、それだけを取る。


 廊下の向こうで足音が増えた。夕刻になっても、保管庫前の人の数は減らない。今夜は特に多い気がした。


 ボルドーからは夕方に短い報せが来ていた。厨房側で古参を連れ、箱の位置を洗い直したという。配置表関連の痕を拾い集め、小火の前後に動いた物の順番を紙に落としてある。明朝までには届くと、走り書きで1行だけ。

 あの人は言葉を多く使わない。だが必要なものは、必要な前に動いている。


 書記官が茶を持ってきた。

 渋い。ひどく渋い。

「……温めておこうと思って」

 善意なのは分かる。リュシアン様もひと口だけ飲んで、何も言わず静かにカップを置いた。書記官が「薄かったですか」と聞いたとき、3人が少しの間だけ同じ顔をした。


 それで気が緩んだわけではないが、肩の位置が少し戻る。


 日が落ちて、監査机に残ったのは3人だった。

 鍵簿の照合は終わった。7つ半の返却欄、飛んだ封番号、前詰めの棚。全部が同じ1刻を向いている。完璧ではない。断定もできない。けれど、1本線は引けた。


「全部は取れません」

 私が言うと、リュシアン様は紙から顔を上げた。

「抜けた1刻だけは繋がりました。明朝、棚が動いても、これは消えません」

 彼は短く頷いた。

「なら、それを残せ」

「はい」


 書記官が照合済みの紙束を端から揃えていた。指の癖で、角をきっちり合わせてから束ねる。その小さな仕草が、今夜は頼もしかった。


 棚整理は明日の朝に始まる。

 その前に残せるものは、全部ここにある。1刻の傾き、飛んだ番号、寄せた棚。証拠は細くても、1本であれば切れない。そう決めた瞬間、焦りは少しだけ作業に変わった。


 全部は要らない。抜けた1刻だけで足りる。


 ただ、1つだけ引っかかりがあった。

 昨日まで話す気配を見せていた者が、今日は顔を出していない。保管庫前でよく見かける下働きだ。鍵簿を洗い終えた今、次に必要なのはあの証言のはずだ。

 だが保管庫の前の足音はまだ続いている。棚が動く前に、こちらが先に動けた。それは間違いない。

 ――では、なぜ今日になって、あの人の声だけが聞こえなくなったのか。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ