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「連載版」「献立なんて誰にでも組める」と婚約破棄された宮廷の配膳記録官ですが、帳面72冊が止まったら王宮の食卓も止まるようですよ  作者: 夢見叶
第5部 監査・交渉・逆転加速 第12章 空白発見──保管庫が狙われる

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第57話 証言が止まる理由を言える?

 昨夜まで話す気だった人間が、朝には黙っている。


 それは臆病というより、何かが夜のうちに届いたときの顔だ。


 控え室の長椅子に座る下働きは、両手を膝に置いたまま視線を上げなかった。昨日は、保管庫前で見たものを言えると言っていた。時間も、顔ぶれも、箱の出入りも、曖昧だが覚えていると。


 ところが今朝は、口を開くたびに喉で止まる。


「無理にとは言いません」


 私はそう言った。脅せば閉じる。急かせば壊れる。


 声はできるだけ平らに保った。けれど胸の中では、昨夜組み立てた計算が音を立てて揺れていた。この子に話してもらわなければ、鍵簿の空白と現場の食い違いを繋ぐ人の証言が消える。1本の鎖には、どこかに人が要る。


 隣に立つリュシアン様の肩に、怒りが見えた。紙を抜いた手より、今この朝に口を黙らせた手の方へ向く怒りだ。


「誰に何を言われた」


 声は抑えているのに鋭い。


 下働きの肩が跳ねた。私は1歩前へ出る。


「それでは、余計に話せません」


 言った瞬間、彼は私を見た。怒りを飲み込む顔だ。引くのに1拍かかった。


 その1拍の重さが、かえって胸に刺さる。


 部屋の空気が止まった。


「……鍋なら持てます」


 下働きが、突然そう言った。


 私とリュシアン様は同時に黙った。若手書記官も、入口に立っていた立会人も、全員が少しだけ困った顔をした。


 今何の話を、という沈黙だったが、本人は至って真剣な目をしている。


「そうですか」


 私は答えた。


「では今は、持たなくていいです」


 話せる保証のない場所で話すことは求めない。それは分かった。だから今は引く。


 控え室を出て、私は廊下の柱に背を当てた。リュシアン様は無言のまま隣へ来た。手帳の端を押さえ、つい時刻を書きそうになって手を止める。今は記録の時間ではない。


「生活を握られているとしたら」


 私が言うと、彼は少し間を置いた。


「……支給か」


 それだけで、方向が決まった。


 感情ではなく段取りで話せる人だ。今この瞬間、その冷静さが助かる。怒りを飲み込んで段取りへ戻す速さを、私は密かに頼りにしている。


 倉庫前の机へ急いだのはそれからすぐのことだ。証人の証言ではなく、証人の家族の記録を調べる。家族向けの支給欄を取り出すと、若手書記官が既に赤線の入った1枚を広げていた。


「これも、同じです」


 小麦。油。乾果。前月まで定期で出ていた分が、今月だけ止められている。支給欄を横切る線は1本だけだが、ひどく静かで、ひどく強い。


 胸の奥が冷えた。


 これは、脅し文句よりよほど強い。腹が減れば、人は正しさより先に家へ帰る。証言の代わりに生活を止めた。それだけで口は閉じる。


「赤線が引かれたのはいつですか」


「昨夜の更新分です。2日前までは通っていました」


 昨夜。下働きが話す気を失ったのと、同じ夜だ。


 私は支給札の端を指でなぞった。筆の入り方が乱れている。急いで引いた線だ。丁寧に止めようとした人間の字ではなく、間に合えばいいと思った人間の字だ。


 監査が動いていると知られた。あるいは、昨日の段階で下働きが何かを話しかけたのを、誰かが見ていた。


 どちらにしても、もう時間がない。


 厨房の裏口でボルドーを見つけたのは、昼が少し過ぎた頃だった。煤のついた腕で鍋蓋を持ったまま、彼は中庭の方を見ていた。


「見てほしいものがあります」


 私が声をかけると、彼は振り返らずに言った。


「分かってる」


 赤線入りの支給札を差し出すと、ボルドーは1度だけ息を吐いた。鍋蓋を置く。布巾を1度広げ、もう1度折り直す。そういう間の取り方をする人だ。


「黙ってるんじゃない」


 低い声が中庭へ溶けた。


「黙らされてる」


 その言い方が、ひどく現場に近かった。難しい言葉ではない。けれど机の上でだけ考えていたら出てこない言い方だ。


「厨房では、こういうことは前にも」


「何度もある」


 即答だった。


「言った後で干された人間を、私はここで何人も見てる。だから皆、言わなくなる。賢くなるんじゃない。正しいことを言っても守られなかったと、体で覚えてしまう」


 私は支給札を握った。


 今まで見ていたのは、紙を抜く手だった。証拠書類を消す手。記録を書き換える手。


 けれど人の口を止める手は、別の場所から伸びている。帳面の上ではなく、生活の中へ。


 食い扶持を動かせば、監査の外側から証言を止められる。どれほど手順を整えても、証人が話さなければ、鎖は途中で切れる。


 怒りを感じた。整理された怒りではなく、もっと手前の、やり場のない怒りだ。


 だが怒っていても、証人は守れない。


 監査机へ戻ると、リュシアン様はすでに封番号の一覧を広げていた。無言のまま視線だけをこちらへ向ける。立会人が席を外したあとの静けさが、部屋に残っていた。


 私は羊皮紙を1枚引き寄せ、紙端を揃えてから書き始めた。


「証人を責めても仕方がない」


 言いながら、文字を落とす。


「話せる順番を、先に作る必要があります。勇気を求めるより、話しても生活が潰れない形を先に置く。それが順番です」


 証言前の支給変更の禁止。監査後も業務上の立場を動かさないこと。その保証が書面で残ること。


 制度の言葉に直せば、それだけのことだ。けれど書く前は誰も思いつかなかったのではない。必要だと分かっていなかっただけだ。本当は分かっていたのに、見るのを後回しにしていた。


 紙の正しさを追うことと、人を守ることは、同じ監査の中に一緒にある。


「今夜中に形にします」


 私が言うと、彼はこちらを見た。


「1人で?」


 問いかけの中に、止めるつもりはなさそうな気配があった。確認をしている顔だ。どこへ手を貸せばいいかを測っている。


「書くのは私です。通すのには、あなたが要ります」


 言い切ると、彼はわずかに頷いた。


「まだだ」


 1言だけ。だがその言葉に、今夜はまだ終わっていないという意味が全部入っている。


 私は再び筆を取った。


 勇気に頼るだけの守りは、弱い。人の善意ではなく、型で守る。証人が何も案じずに話せる手順が先に立っていれば、鎖は途中で切れない。


 今夜、それを作れるかどうか。


 窓の外では夕の明かりが建物の影を長く引き、廊下の足音だけがいつもより静かだった。


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