第55話 保管庫の出入りが抜ける
帳面は、綺麗すぎるときほど怖い。
鍵簿机の前でそう思ったのは、返却時刻の欄が、あまりにも素直な顔をして並んでいたからだ。
貸出時刻、署名、立会い名。全部ある。全部揃って見える。
だが揃って見えるということは、揃えた人間がいるということでもある。
私は頁の端へ指を置き、1行ずつ追った。
7つ。貸出。
7つ半。封蝋確認。
8つ。返却――のはずの欄に、薄い空白がある。
書かれていないわけではない。むしろ、書こうとしてやめたような余白だ。次の行は埋まっている。だから余計に目立つ。
「ここだけ、出た記録がありません」
私が言うと、鍵番は眉を寄せた。
「鍵は戻っています」
「ええ。鍵は」
答えながら、私は封蝋登録簿へ視線を滑らせる。封番号は飛んでいる。けれど登録欄は綺麗だ。帳尻だけが整っていて、その間の1刻だけが抜けている。
リュシアン様が隣で頁を押さえた。
「人ではなく、時間を抜いた」
低い声は断定ではなく確認に近い。私は頷いた。
鍵番が咳払いをして、鍵束を机の上へ置いた。
「厳重に管理しておりますので」
その声が終わらないうちに、束が机の端を滑り、下へ落ちた。予備鍵のひとかたまりが石床で音を立てる。鍵番の顔が少しだけ赤くなった。誰も何も言わなかった。
沈黙の間、私は次の頁をめくる。感情より先に手を動かすのが、今日の自分の仕事だ。
封蝋登録簿の番号飛びは、前後で8番分ある。
1つの貸出に対して、この量は多い。複数の棚を同時に開けたか、あるいは1つの棚を複数回に分けて触ったかだ。どちらにしても、記録されていない1刻の中に詰め込まれている。
「保管庫の中を見せてください」
私が言うと、鍵番は少しだけためらってから頷いた。
保管庫の中へ入ると、空気は紙の乾いた匂いで満ちていた。棚札、持ち出し札、差し戻し箱。整然としている。
だが整然としているからこそ、1箇所だけ詰められた並びが目に刺さる。
本来なら、持ち出された札の分だけ列に息継ぎがあるはずだ。棚は持ち出した分だけ隙間ができる。ところがそこだけ、前へ押し詰められている。抜いたあとで、残りを寄せた痕だ。
「前詰めです」
私が言うと、立会人が怪訝そうな顔をした。
「紙の並びに、そんな違いが?」
「毎日見ていると分かります」
少しだけ、声が冷えた。言い方が刺さったかもしれないと思ったが、撤回しなかった。
現場でも、帳面でも同じだ。知らない人間にはただの乱れに見え、知っている人間には意図が見える。
胃の奥が縮んでいくのを感じた。
想像していた以上に、抜かれた痕が丁寧だった。急いで抜いたわけではない。時間を計りながら、目立たない方法を選んでいる。
「前からですか。それとも最近」
私が鍵番へ振り返ると、彼は少し目を泳がせた。
「……棚整理の前後に、並びが変わることはあります」
「今回はいつです」
答えが来るまでに間があった。その間の長さで、大体分かった。
差し戻し机へ戻ると、その空白時刻だけ担当者名の字が妙に曖昧だった。読める。だが読み切らせない。責任者の輪郭だけを薄くしてある。
リュシアン様が横に立ち、同じ行を見下ろした。
何も言わなかった。言わなくても、見ているものが同じだと分かる。こういう瞬間の静けさが、この人は上手い。
私は筆圧の跡を指でなぞる。書いた人間は丁寧に書こうとして、丁寧にしすぎた。普段の字より筆が遅い。急いでいるのに、ゆっくり書いた。そういう矛盾が、紙には残る。
誰が持ち出したかは、まだ断定できない。
だがそれより先に、別のことが見えた。
8つ前後の空白。封番号の飛び。前詰め。筆の速度。全部が同じ刻へ向いている。
人を隠したのではなく、時刻を隠した。誰の名を消すかより先に、いつ動いたかを消している。
それが分かった瞬間、保管庫はただの棚ではなくなった。
ここは紙を隠す場所ではない。順番を抜き、責任を逃がすための通路だ。
「鍵ではなく、一刻が盗まれています」
声に出したとき、胃の縮みが少しだけ変わった。怖い、ではなく、見えた、という方向に。
整って見える帳面ほど、手が入っている。そしてその手は、いつ動けばいいかを知っている。
監査机へ戻り、私は今日分かったことだけを短く書いた。
7つ半から8つの間。封番号8番。前詰め。担当者名の筆速。
4つの違和感が、全部同じ刻へ重なる。
リュシアン様がカップを机の端に置いた。紅茶の湯気が上がる。淹れてくれたのだろう。
礼を言う前に、彼が1枚の紙を手帳の横へ押した。封番号の一覧だ。こちらが差し戻し机を見ていた間に、飛び番号だけを先に整理していた。
半歩早く、必要なものを寄越す。そういう支え方をする人だと、もう知っている。
「1本になりますか」
低い声が落ちた。
「なります」
答えてから、私は封番号の一覧へ目を通した。8番の飛びは、前後の数字から読むと2箇所だ。1刻の中に、2度動いた痕がある。
胸の中で、ひとつだけ言葉が据わった。
人を疑う前に、この鍵簿そのものを明日までに洗い直す必要がある。
棚整理の通告が出ていた。明日になれば並びが変わる。今夜だけが、この痕を消えないまま見られる時間だ。
私は手帳を閉じ、立ち上がった。灯りが要る。
若手書記官に声をかけるより先に、保管庫の方から鍵束の音が聞こえた。今夜、もう1度だけ棚を見る。
時刻ではなく、入室そのものの記録が、まだあの台帳に残っているはずだ。
そしてその台帳を、まだ誰も洗っていない。




