第54話 足音に切られた言葉
保管庫の前の石床は、よく音が響く。
朝の回廊でそれに気づいたのは、昨日まで聞き流していた足音の数が、今日はやけに多かったからだ。
硬い靴底が一定の間隔で近づき、去り、また別の方向から重なる。巡回にしては多い。偶然にしては揃いすぎている。
私は手帳の端へ時刻を書いた。
朝7つ、2人。次が7つ半、3人。
保管庫の前だけ、妙に空気が詰まっている。
「昨夜の続きだが」
低い声が横に落ちた。リュシアン様だった。
私は顔を上げる。彼はいつものように落ち着いて見えたが、視線の置き方だけが少し近い。前夜に束ねた証拠の帳面、その続きのような顔だった。
「無理をするな、と言うつもりですか」
先に言うと、彼の口元がわずかに動いた。
「半分だけ違う」
その先を待った。だが続きが来るより早く、階段側から足音が近づいてくる。
侍従が2人、立会人が1人。
私は反射で帳面を開き、彼は目線だけを紙へ落とした。
「では、差し戻し分の時刻確認を」
「承知しました」
さっきまで別の言葉を持っていたのに、公の場へ落とすと、それは簡単に業務へ化ける。
うまく隠せたはずなのに、隠せたこと自体が少し痛い。
保管庫前では、鍵番が昨日には無かった入室札の確認を始めていた。
札、署名、立会いの順番を、妙に丁寧に読み上げる。
「手順が増えましたね」
「上から、念のためと」
念のため。便利な言葉だ。
責任も意図も曖昧なまま、ただ人の動きだけを増やす。
立会人が帳面を覗き込んで、首を傾けた。
「何の確認を、ご記録中で」
「入室の時刻です」
私が答え終わらないうちに、隣でリュシアン様が静かに口を開いた。
「棚の並びを」
2本の答えが重なり、立会人が目を瞬く。
少しだけ、空気が止まった。意図したわけではないのに、2人して違う答えを返してしまった。どちらも間違ってはいないから、余計に収まりが悪い。
「……両方です」
私が引き取ると、立会人は小さく頷いて離れた。
リュシアン様はその背中を目で追いながら、何も言わなかった。言わないことで謝らない人だ、とまた思う。
私は立会いの背後で、石床に落ちる靴音をもう一度数えた。
今日のこの増え方は、守りのためではない。近づかせたくない棚か、触られたくない時刻がある。
昨日まで、この廊下の足音は単純だった。鍵番が1人、立会人が1人。今日は3交替だ。
しかも足が止まる位置がほぼ同じで、保管庫の扉より少しだけ手前になっている。扉を通り過ぎる前の位置。中を確認するのではなく、中への視線を遮るような場所に、人が立つ。
昨日まで「管理が厳しくなった」と読んでいた。
しかし1時刻ごとに数えて、気づく。
人が増えるのは守りのためではない。特定の時刻に、何かを見えにくくするためだ。
逆なのだ。見張りが多い場所は、安全ではなく――隠れている。
昼の前に、若手書記官が差し戻し写しの束を持ってきた。
「この欄だけ、字の傾きが違います」
書記官が指先で示した箇所を見る。前後の行と傾きが揃っていない。急いだのか、別の手が入ったのか、今はまだ断言できない。
「写しておいてください」
「今夜ですか」
「できれば夕刻に」
書記官が頷いて、作業へ戻る。この張り詰め方が何日も続いている。
けれど今は、やることが積み上がるほど焦りが落ち着く。不思議なものだ。
夕方、廊下でリュシアン様と短く言葉を交わした。
「午後の足音は何刻に増えましたか」
「10つ過ぎ、2人追加です。止まる位置は同じでした」
私が手帳を差し出すと、彼は目を通した。
返すとき、指先が紙の角をわずかに押さえる。それだけが、読んだ証として残る。
「念のため、という言葉ほど都合のいい隠れ蓑はありません」
低く言うと、彼はひと呼吸置いた。
「同意する」
たった3文字だったが、否定しない人の同意は軽くない。
石廊下の奥で、また靴音が重なる。夕刻でこの数なら、夜はどうなるか。
私は手帳の隅へ、次の時刻欄を開けておいた。
夜机へ戻って、今日の記録を並べ直す。
朝から夕方まで、足音が止まった位置と時刻と人数。整理すると、1つのことが浮かぶ。
7つから8つ。昼の10つから11つ。夕の1つ頃。その3つの刻だけ、人の数が厚い。
巡回なら間隔が均等になる。守りが目的なら、一定の厚みが続く。
なのに特定の刻だけ増えて、他は薄い。
守りたいのは保管庫全体ではなかった。特定の時刻に、何かが動いている。
私は手帳の端へ小さく印をつけた。そして、もう1行書き加える。
「足音の濃い刻の出入り記録を、明朝最初に照合すること」
明日の自分への指示だ。言えなかった言葉の代わりに、記録だけが増えていく。
けれど今は、それでいい。感情より先に手を動かすのは、私の仕事だ。そして彼は、それを止めない。
だからたぶん、まだ切れていない。
足音に切られる前の言葉も、証拠へ繋がる線も。
消灯の前に、明朝分の照合欄を開けておく。
足音の濃い刻に限って、保管庫の出入り記録だけが妙に綺麗に揃っているのか。
それを確かめるのは、明日の朝だ。彼が、また半歩早く紙を寄越してくる前に。




