第52話 釘穴の位置を覚える人が戻る
戻るのは、負けたときだと思っていた。
だから夜明け前の厨房へ足を踏み入れた瞬間、胸のどこかが少しだけ痛んだ。
ここは、私が去ったあとも回り続けた場所だ。
回り続けたのに、欠けた。欠けたまま誤魔化され、紙の上だけ整えられ、誰かの都合のいい形へ押し直された。
その結果だけを知っている場所へ、もう1度戻ってくる。気持ちのいいことではない。
でも、壁は嘘をつかない。
竈の横の板壁には、煤が薄く残っていた。いつもなら見過ごす程度の汚れだ。
けれど今朝は、その煤の切れ方の方が目に入る。四角く薄い。そこだけ、何かが長く掛かっていた痕だ。
「そこですか」
後ろからボルドーが言う。
「ええ」
私は近づき、指先で壁に触れた。釘穴が2つ。間隔は掌1つ分より少し広い。高さは、立ったままでも屈まず見られる位置。油はねの跡が下側へ薄く伸びている。
料理名だけを書く札なら、こんな位置には掛けない。水桶と火入れと配膳口の、全部が1目で見える高さでなければ意味がない。
配置表だ。
言葉にする前に、もう分かっていた。
◇
私は補助机へ戻り、木札を並べ始める。竈。水桶。油。給仕口。人の立ち位置。
23日目の朝、ここで何が先に動き、何が半歩遅れたか。
ボルドーが短く口を挟む。
「その日は、水桶が先に詰まった」
「ええ」
「油差しは右ではなく左だ」
「分かっています」
横から、別の札がそっと置かれた。リュシアン様の手だった。
説明はいらない顔をしている。私が必要なものを、私より半歩早く置いてくる。その正確さが、今はひどく心強い。
戻ってきたのは、私じゃない。
順番だ。
そう思った瞬間、やっと胸の痛みが少しだけ薄れた。
木札を並べながら、ボルドーが低い声で続ける。
壁の煤。釘穴の位置。23日目の前後、この厨房で起きたことを、怒りでも恨みでもなく、ただ順番として語る。私はそれを手元の控えへ写しながら、彼の言葉が記録になるよう角を選んだ。
証言は感情が強いほど、机の上で削られる。現場の人間が淡々と語るほど、重みが違う。ボルドーはそれを言葉で知っているわけではないだろうが、体で知っていた。
◇
竈の前で給仕の位置を確かめるために、リュシアン様が水桶の木札を机の端へ動かした。
少し迷った様子で、置き直す。そちらを向くと、逆向きだった。
ボルドーが無言で近づき、向きを正しい方へ直した。音もなく、表情も変えずに。
リュシアン様が1拍だけ間を置いてから、視線を壁板へ戻した。
私はその一連を見なかったことにして、控えの続きを書いた。
◇
木札の並びが1つ形になったとき、法務係と若い書記官、それから立会人が3人、連れ立って厨房へ入ってきた。
夜明けの薄明かりの中で、誰も笑っていない。昨日までとは空気が違うと、入ってきた側も察しているのだと分かる顔だった。
「現場での再現、ということですか」
法務係が紙の端を揃えながら言う。
「ええ」
「それで、何を」
「足りているかどうかではなく、何が足りていなかったかを残します」
返す前に少しだけ間があった。
否定もせず、受け流しもせず、法務係はただ書記官の方へ顎を向けた。記録を取れ、という意味だ。それで充分だった。
釘穴の前に立ち、私は向きを変えた。
水桶の位置から、竈から、給仕口から、この壁板がどこから見えたか。木札の並びと重ねると、1本の線が引ける。
小火が起きたのは運の悪さではない。誰かが外したものの代わりに、何もなかった。
「覚えていたんじゃありません」
立会人の1人が、私をじっと見ている気配があった。私は壁から顔を離さずに続ける。
「毎朝、見ていました」
見ていたから、外れた瞬間が分かる。
外れた瞬間が分かるから、外れた痕が読める。
外れた痕が読めるから、今日ここで形に戻せる。
そういう話だ。
立会人たちが顔を見合わせた。軽視しようとして、できない空気が出ていた。
◇
壁の釘穴は小さい。紙1枚分の痕でしかない。
けれど、誰かが消したかったものほど、こういう形で残る。
帳面の空白も、封の欠けも、綴じ糸の新しさも、みんな同じだ。消したつもりの人間だけが、それで終わったと思う。
終わらない。
ここから、繋がる。
木札の再現を1通り写し終えてから、私は帳面を閉じた。
厨房の出口へ向かうとき、リュシアン様が後ろからついてくる。声は出さない。私も出さない。立会いの目がある場で余分な言葉を使う気は、お互いにない。
廊下に出て、石床の感触が変わったところで、リュシアン様が前へ出た。
1歩の出し方が、普段より少しだけ遅い。
終わったら――その続きは、昨日の廊下に今もそのまま残っている気がした。
けれど今は、それより先に動かさなければならない紙がある。言えなかった言葉を、私はいつも仕事に変えてしまう。それが長所なのか逃げなのか、まだ分からない。
「立会いは、揃いました」
リュシアン様がそれだけ言った。
「分かりました」
私はそれだけ返した。
廊下の突き当たりで、若い書記官が速足で近づいてくる。
紙を持ち、息を切らし、目だけが先に動いている。
「監査札が――掛かりました」
1拍の沈黙のあと、リュシアン様が私の方を向いた。
今度は、言い逃れできない。




