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「連載版」「献立なんて誰にでも組める」と婚約破棄された宮廷の配膳記録官ですが、帳面72冊が止まったら王宮の食卓も止まるようですよ  作者: 夢見叶
第4部 価値観の代償/守るために失う 第11章 代役投入──次はもっと燃える

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第52話 釘穴の位置を覚える人が戻る

 戻るのは、負けたときだと思っていた。


 だから夜明け前の厨房へ足を踏み入れた瞬間、胸のどこかが少しだけ痛んだ。

 ここは、私が去ったあとも回り続けた場所だ。

 回り続けたのに、欠けた。欠けたまま誤魔化され、紙の上だけ整えられ、誰かの都合のいい形へ押し直された。

 その結果だけを知っている場所へ、もう1度戻ってくる。気持ちのいいことではない。


 でも、壁は嘘をつかない。


 竈の横の板壁には、煤が薄く残っていた。いつもなら見過ごす程度の汚れだ。

 けれど今朝は、その煤の切れ方の方が目に入る。四角く薄い。そこだけ、何かが長く掛かっていた痕だ。


「そこですか」


 後ろからボルドーが言う。

「ええ」


 私は近づき、指先で壁に触れた。釘穴が2つ。間隔は掌1つ分より少し広い。高さは、立ったままでも屈まず見られる位置。油はねの跡が下側へ薄く伸びている。

 料理名だけを書く札なら、こんな位置には掛けない。水桶と火入れと配膳口の、全部が1目で見える高さでなければ意味がない。


 配置表だ。


 言葉にする前に、もう分かっていた。



     ◇



 私は補助机へ戻り、木札を並べ始める。竈。水桶。油。給仕口。人の立ち位置。

 23日目の朝、ここで何が先に動き、何が半歩遅れたか。

 ボルドーが短く口を挟む。


「その日は、水桶が先に詰まった」

「ええ」

「油差しは右ではなく左だ」

「分かっています」


 横から、別の札がそっと置かれた。リュシアン様の手だった。

 説明はいらない顔をしている。私が必要なものを、私より半歩早く置いてくる。その正確さが、今はひどく心強い。


 戻ってきたのは、私じゃない。

 順番だ。


 そう思った瞬間、やっと胸の痛みが少しだけ薄れた。


 木札を並べながら、ボルドーが低い声で続ける。

 壁の煤。釘穴の位置。23日目の前後、この厨房で起きたことを、怒りでも恨みでもなく、ただ順番として語る。私はそれを手元の控えへ写しながら、彼の言葉が記録になるよう角を選んだ。

 証言は感情が強いほど、机の上で削られる。現場の人間が淡々と語るほど、重みが違う。ボルドーはそれを言葉で知っているわけではないだろうが、体で知っていた。



     ◇



 竈の前で給仕の位置を確かめるために、リュシアン様が水桶の木札を机の端へ動かした。

 少し迷った様子で、置き直す。そちらを向くと、逆向きだった。


 ボルドーが無言で近づき、向きを正しい方へ直した。音もなく、表情も変えずに。


 リュシアン様が1拍だけ間を置いてから、視線を壁板へ戻した。

 私はその一連を見なかったことにして、控えの続きを書いた。



     ◇



 木札の並びが1つ形になったとき、法務係と若い書記官、それから立会人が3人、連れ立って厨房へ入ってきた。

 夜明けの薄明かりの中で、誰も笑っていない。昨日までとは空気が違うと、入ってきた側も察しているのだと分かる顔だった。


「現場での再現、ということですか」


 法務係が紙の端を揃えながら言う。

「ええ」

「それで、何を」

「足りているかどうかではなく、何が足りていなかったかを残します」


 返す前に少しだけ間があった。

 否定もせず、受け流しもせず、法務係はただ書記官の方へ顎を向けた。記録を取れ、という意味だ。それで充分だった。


 釘穴の前に立ち、私は向きを変えた。

 水桶の位置から、竈から、給仕口から、この壁板がどこから見えたか。木札の並びと重ねると、1本の線が引ける。

 小火が起きたのは運の悪さではない。誰かが外したものの代わりに、何もなかった。


「覚えていたんじゃありません」


 立会人の1人が、私をじっと見ている気配があった。私は壁から顔を離さずに続ける。

「毎朝、見ていました」


 見ていたから、外れた瞬間が分かる。

 外れた瞬間が分かるから、外れた痕が読める。

 外れた痕が読めるから、今日ここで形に戻せる。

 そういう話だ。


 立会人たちが顔を見合わせた。軽視しようとして、できない空気が出ていた。



     ◇



 壁の釘穴は小さい。紙1枚分の痕でしかない。

 けれど、誰かが消したかったものほど、こういう形で残る。

 帳面の空白も、封の欠けも、綴じ糸の新しさも、みんな同じだ。消したつもりの人間だけが、それで終わったと思う。


 終わらない。

 ここから、繋がる。


 木札の再現を1通り写し終えてから、私は帳面を閉じた。

 厨房の出口へ向かうとき、リュシアン様が後ろからついてくる。声は出さない。私も出さない。立会いの目がある場で余分な言葉を使う気は、お互いにない。


 廊下に出て、石床の感触が変わったところで、リュシアン様が前へ出た。

 1歩の出し方が、普段より少しだけ遅い。


 終わったら――その続きは、昨日の廊下に今もそのまま残っている気がした。

 けれど今は、それより先に動かさなければならない紙がある。言えなかった言葉を、私はいつも仕事に変えてしまう。それが長所なのか逃げなのか、まだ分からない。


「立会いは、揃いました」


 リュシアン様がそれだけ言った。

「分かりました」

 私はそれだけ返した。


 廊下の突き当たりで、若い書記官が速足で近づいてくる。

 紙を持ち、息を切らし、目だけが先に動いている。


「監査札が――掛かりました」


 1拍の沈黙のあと、リュシアン様が私の方を向いた。


 今度は、言い逃れできない。

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