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「連載版」「献立なんて誰にでも組める」と婚約破棄された宮廷の配膳記録官ですが、帳面72冊が止まったら王宮の食卓も止まるようですよ  作者: 夢見叶
第4部 価値観の代償/守るために失う 第11章 代役投入──次はもっと燃える

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第51話 残り一夜、逃げ道は塞がる

 夜は、泣くためにあるのだと思っていた。

 少なくとも、こんな日の夜は。


 けれど実際には、泣いている暇なんてなかった。


 厨房の灯りは少し低く落としてある。深夜の作業だからだ。竈はもう大きくは使わない。残り火の熱で湯を保ち、明朝に使う札と布を揃える。


 昼間の厨房が音で真実を喋る場所なら、夜の厨房は手で決意を固める場所だった。


 私は補助机の上へ木札を並べた。


 水桶。油。竈。配膳口。人の位置。

 事故が起きなかった順番と、起きかけた順番。その違いを、紙ではなく手の届く形へ落としていく。


 ボルドーが何も言わず、必要な札だけを寄こした。

 慰めがないのがありがたかった。今ほしいのは優しさではなく、抜けを作らない手つきだ。


 書類机の方では、控えが20頁ほど積まれている。全部は出さない。出したいものを出すのではなく、通る順に出す。


 そうしなければ、正しいことでも机の上で死ぬ。


 廊下の向こうで足音が止まった。

 振り向かなくても分かる。


「立会いの枠は確保しました」


 リュシアン様の声だった。低く、短い。疲れているはずなのに、少しも揺れていない。


「法務係は?」

「嫌な顔をしていました。だが、引っ込みません」

「そうですか」


 それだけの会話なのに、胸の奥が少しだけ熱くなる。


 大丈夫、とは言われない。

 任せろ、とも言われない。

 ただ、必要な席が確保され、明朝の立会いが消えていない。


 それだけで十分だった。


 私は木札を1枚持ち上げた。


「これを、先に」


 彼は何も訊かず受け取った。私が紙ではなく木札を渡したことにも、意味を問わない。問い詰めるより先に、並べるべき場所があると知っている顔だった。


 ボルドーが火入れ順の木札をひとまとめにして補助机の端へ寄こした。それだけで、机の上がひとつ落ち着く。


 私は書類箱から3枚を選び出した。


 空白頁の記録。綴じ糸の差を書き取った覚書。共署の写し。

 それに禁忌札の写しを重ね、封蝋欠けの控えを一番下へ加える。


 5枚が、初めて並んだ。


 線になる、と気づいた瞬間、息の奥が少しだけ震えた。


 怖いのではなかった。ずっと別々に見えていたものが、初めて同じ向きを向いた。それが、こんな夜中の補助机の上で形になったことが――ただ、少し重かった。


 笑ってしまいそうになったのは、笑える場面ではないからだ。

 それだけ疲れているということだ、と自分に言い聞かせる。


 ボルドーが棚の方へ目をやった。


 香辛料の棚の端で、小瓶が1本だけ向きを違えて置かれていた。私はほとんど無意識に手を伸ばし、向きを正した。記録官の癖だ。並んでいないものを、並べずにはいられない。


 ボルドーが何も言わず、低く1度だけ息を吐いた。

 後ろに立っていた下働きの子が、堪えきれない顔で鼻を啜る音がした。


 誰も泣ける空気ではないのに、そこにだけ、隙間が生まれた。


 私がすぐ次の紙へ手を伸ばしたせいで、誰もその隙間に入れなかった。


 少しだけ、申し訳なかった。


 厨房口の奥で、使用人が水桶を運ぶ音がした。深夜でも厨房は完全には止まらない。湯の匂いが薄く漂い、乾いた床板を踏む足音が遠くなる。こんな夜にだけ、生活の音が妙に鮮明に聞こえる。


 手を動かしながら、胸の中で順番が揃っていくのが分かった。


 翌朝の釘穴確認。厨房の証言。この束、全部が繋がる1本の線へ向かっている。

 そう思えた瞬間だけ、少しだけ呼吸が楽になった。


 リュシアン様が束を手に取り、端を揃えながら言った。


「条件文を先に出す。空白頁は一番後ろか」

「はい。現場記録と重ねて、最後に添えます」


 返答しながら、胸の奥が少しだけざわついた。


 庇われる声ではなかった。命令でも、慰めでもなかった。同じ机の上で、同じものを見ている人間の言葉だった。


 庇ってもらえる位置にいる方が、ずっと楽なのに。

 並ぶということは、こんなに重い。


 私はそれをずっと怖れていた。守られる側でいれば、失敗しても自分だけが傷つく。でも横に並んでしまえば、失敗したとき隣まで巻き込む。それが嫌で、ずっと1人で抱えようとしていた。


 分かっていて、今夜ここに2人でいる。


 箱の蓋を閉めた。


「置いていくのは私じゃありません」


 声が出た。出るつもりではなかったが、出た。


「順番です。ここへ残すのは」


 リュシアン様が振り向いた。

 何も言わなかった。ただ、こちらを見ていた。


 それだけで、十分だった。


 廊下へ出ると、灯りが低かった。壁に沿って2人分の影が伸びる。彼が先を歩き、私は半歩後ろを歩いた。


 途中で彼の足の運びが、ほんの少しだけ緩んだ。


「終わったら――」


 私は足を止めた。廊下の空気が静かになる。続く言葉が、来なかった。残り火の音だけが遠くで低く鳴っている。


 彼の横顔は、影の中に半分入っていた。

 私はそちらを向かなかった。向いてしまったら、続きを待ってしまう気がした。


「明朝は、私が先に行きます」


 そう言い直して、彼は前へ歩いた。


 私はその場に少しだけ立ったまま、次の1歩を出すまでに間が空いた。


 「終わったら」の続きを、まだ聞いていない。

 廊下にその4文字だけが残って、暗い空気の中にじっとある。


 明朝、監査が始まる。

 今夜が終われば、次が来る。


 終わったら――その先だけが、まだどこにも書かれていない。


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