第51話 残り一夜、逃げ道は塞がる
夜は、泣くためにあるのだと思っていた。
少なくとも、こんな日の夜は。
けれど実際には、泣いている暇なんてなかった。
厨房の灯りは少し低く落としてある。深夜の作業だからだ。竈はもう大きくは使わない。残り火の熱で湯を保ち、明朝に使う札と布を揃える。
昼間の厨房が音で真実を喋る場所なら、夜の厨房は手で決意を固める場所だった。
私は補助机の上へ木札を並べた。
水桶。油。竈。配膳口。人の位置。
事故が起きなかった順番と、起きかけた順番。その違いを、紙ではなく手の届く形へ落としていく。
ボルドーが何も言わず、必要な札だけを寄こした。
慰めがないのがありがたかった。今ほしいのは優しさではなく、抜けを作らない手つきだ。
書類机の方では、控えが20頁ほど積まれている。全部は出さない。出したいものを出すのではなく、通る順に出す。
そうしなければ、正しいことでも机の上で死ぬ。
廊下の向こうで足音が止まった。
振り向かなくても分かる。
「立会いの枠は確保しました」
リュシアン様の声だった。低く、短い。疲れているはずなのに、少しも揺れていない。
「法務係は?」
「嫌な顔をしていました。だが、引っ込みません」
「そうですか」
それだけの会話なのに、胸の奥が少しだけ熱くなる。
大丈夫、とは言われない。
任せろ、とも言われない。
ただ、必要な席が確保され、明朝の立会いが消えていない。
それだけで十分だった。
私は木札を1枚持ち上げた。
「これを、先に」
彼は何も訊かず受け取った。私が紙ではなく木札を渡したことにも、意味を問わない。問い詰めるより先に、並べるべき場所があると知っている顔だった。
ボルドーが火入れ順の木札をひとまとめにして補助机の端へ寄こした。それだけで、机の上がひとつ落ち着く。
私は書類箱から3枚を選び出した。
空白頁の記録。綴じ糸の差を書き取った覚書。共署の写し。
それに禁忌札の写しを重ね、封蝋欠けの控えを一番下へ加える。
5枚が、初めて並んだ。
線になる、と気づいた瞬間、息の奥が少しだけ震えた。
怖いのではなかった。ずっと別々に見えていたものが、初めて同じ向きを向いた。それが、こんな夜中の補助机の上で形になったことが――ただ、少し重かった。
笑ってしまいそうになったのは、笑える場面ではないからだ。
それだけ疲れているということだ、と自分に言い聞かせる。
ボルドーが棚の方へ目をやった。
香辛料の棚の端で、小瓶が1本だけ向きを違えて置かれていた。私はほとんど無意識に手を伸ばし、向きを正した。記録官の癖だ。並んでいないものを、並べずにはいられない。
ボルドーが何も言わず、低く1度だけ息を吐いた。
後ろに立っていた下働きの子が、堪えきれない顔で鼻を啜る音がした。
誰も泣ける空気ではないのに、そこにだけ、隙間が生まれた。
私がすぐ次の紙へ手を伸ばしたせいで、誰もその隙間に入れなかった。
少しだけ、申し訳なかった。
厨房口の奥で、使用人が水桶を運ぶ音がした。深夜でも厨房は完全には止まらない。湯の匂いが薄く漂い、乾いた床板を踏む足音が遠くなる。こんな夜にだけ、生活の音が妙に鮮明に聞こえる。
手を動かしながら、胸の中で順番が揃っていくのが分かった。
翌朝の釘穴確認。厨房の証言。この束、全部が繋がる1本の線へ向かっている。
そう思えた瞬間だけ、少しだけ呼吸が楽になった。
リュシアン様が束を手に取り、端を揃えながら言った。
「条件文を先に出す。空白頁は一番後ろか」
「はい。現場記録と重ねて、最後に添えます」
返答しながら、胸の奥が少しだけざわついた。
庇われる声ではなかった。命令でも、慰めでもなかった。同じ机の上で、同じものを見ている人間の言葉だった。
庇ってもらえる位置にいる方が、ずっと楽なのに。
並ぶということは、こんなに重い。
私はそれをずっと怖れていた。守られる側でいれば、失敗しても自分だけが傷つく。でも横に並んでしまえば、失敗したとき隣まで巻き込む。それが嫌で、ずっと1人で抱えようとしていた。
分かっていて、今夜ここに2人でいる。
箱の蓋を閉めた。
「置いていくのは私じゃありません」
声が出た。出るつもりではなかったが、出た。
「順番です。ここへ残すのは」
リュシアン様が振り向いた。
何も言わなかった。ただ、こちらを見ていた。
それだけで、十分だった。
廊下へ出ると、灯りが低かった。壁に沿って2人分の影が伸びる。彼が先を歩き、私は半歩後ろを歩いた。
途中で彼の足の運びが、ほんの少しだけ緩んだ。
「終わったら――」
私は足を止めた。廊下の空気が静かになる。続く言葉が、来なかった。残り火の音だけが遠くで低く鳴っている。
彼の横顔は、影の中に半分入っていた。
私はそちらを向かなかった。向いてしまったら、続きを待ってしまう気がした。
「明朝は、私が先に行きます」
そう言い直して、彼は前へ歩いた。
私はその場に少しだけ立ったまま、次の1歩を出すまでに間が空いた。
「終わったら」の続きを、まだ聞いていない。
廊下にその4文字だけが残って、暗い空気の中にじっとある。
明朝、監査が始まる。
今夜が終われば、次が来る。
終わったら――その先だけが、まだどこにも書かれていない。




