第50話 疑いの矢先と、ページの沈黙
帳面は、喋らない。
だからこそ、黙り方に癖が出る。
記録室の空気は乾いていた。窓は高く、陽は差し込むのに温かくない。埃の匂いと古い紙のにおいが重なって、声を出すこと自体が場違いに思える。机の上には、提出用の写しと原帳面が並んでいた。見比べるだけなら、誰にでもできる作業だとたぶん思われるだろう。けれど実際は違う。帳面を見るというのは、書いてある文字だけでなく、書かれなかった癖まで読むことだ。筆圧の強さ、行間の揺れ、押印の角度。揃っているとき、記録は正直だと言える。揃いすぎているとき、私は疑う。
頁を1枚ずつめくる。
日付。
献立名。
札の位置。
余白。
押印。
指の腹に触れる紙の乾き。
隣の若い書記官が、控えめに言った。
「問題の頁は、そのあたりです」
「ええ。見れば分かります」
返しながら、私は少しだけ眉を寄せた。
分かる。
けれど、思ったより露骨だった。
特定の日付帯だけ、余白幅が整いすぎている。帳面というのは、本来もっと乱れる。急いだ行があり、書き足した癖があり、迷った跡が残る。なのに、ここだけは妙に静かだ。整っていて、むしろ不自然だった。誰かが「乱れないように」と意識したみたいに。乱れのなさが誠実さではなく、操作の跡に見える。
◇
さらに1枚めくって、私は手を止めた。
「綴じ糸が、新しい」
小さく呟くと、書記官が息を詰めた。
「保全のために、直したのかもしれません」
「かもしれませんね」
私は否定しない。紙端に指を滑らせる。糸穴の周りだけ繊維が違う。古い帳面に新しい糸を通したときの、あの不自然な締まり方だ。保全で綴じを直すなら、帳面ごとまとめて換えるのが筋だ。この1冊の、この1箇所だけを直すのには、別の理由が必要になる。
何も書いていない頁が、1枚ある。
書記官がその頁を2度めくり、「……貼りついていたかと」と小声で弁解した。私は否定せず、次の頁を差し出す。
問題はそこではない。
空白があることではなく、その空白の形だ。同じ帳面の中の他の白紙は、用紙の繊維が経年でわずかに黄みを帯びている。なのにこの1枚だけ、白さが少し強い。年が合っていない。差し込まれた白だ。
指の腹が、ほんの少しだけ違う厚みを教えた。
私なら、空白をこんな形にしない。書けない1行は別紙へ移すか、消した跡ごと残す。帳面が嘘をつくのは書いた内容ではない。書き方だ。
◇
窓際に立っていたリュシアン様が、低い声で訊いた。
「証拠になるか」
「まだ、なりません」
私は頁から目を離さず答える。
「でも、黙っている理由にはなります」
彼が短く息を吐いた。怒りを飲み込む音だと分かる。今すぐ相手を追いつめたい気持ちが、言葉の手前で踏みとどまっている。
私も同じだった。
この空白が偶然でないなら、帳面に手が入っている。何の日付を、何の献立を、誰が見てはならないと判断したのか。5年間帳面の前に立ってきた身には、「書かれなかった」と「書かれなかったことにされた」の違いが、指先で分かる。今ここにあるのは後者だ。退職の朝、72冊の背表紙を辿った指の記憶が戻ってくる。あの均一な摩耗、誰かが先に同じ順番で触っていた、あの夜の冷えが肩の後ろから降りてくる。
けれど今必要なのは怒りではない。この空白を「何もない」から「触られた」へ変える言葉だ。
写しに目を戻す。
提出用の写しには、その頁がない。書かれなかったのではなく、写されなかった。いや、写す対象がなかったのかもしれない。抜いてから写した。その順番で動いた手がある。
私は机に3枚の控えを並べ直した。綴じ糸の状態の覚え書き。余白幅のメモ。空白頁と隣接頁の比較。証拠として通るほどではない。でも、何もない頁が「何かを指す」ための足場にはなる。
法務係を呼ぼうとしたとき、書記官が静かに言った。
「……綴じ直したなら、直した人がいるはずです」
その声は小さかった。けれど、この部屋でいちばん重い一言だった。
私は頁を閉じた。指先が無意識に、綴じ糸の端を1度だけなぞった。
直した人。
それが誰かを、今ここで断定できない。帳面を1人で扱える位置にいる人間の数は、それほど多くない。保管の鍵。閲覧の許可。記録室への入室記録。全部をたぐれば、絞れる。
◇
差戻し机を挟んで法務係と向かい合ったとき、彼は空白頁の写しを一瞥してから言った。
「何も書かれていない以上、証拠にはなりません」
「空白頁が差し込まれているという点では」
「証拠にはなりません。紙質の差も、保全作業の誤差で説明がつく」
紙の端を揃えてから返答する、いつもの癖だった。書かれていないものは退けられる。それが彼の立つ場所の論理だ。
私は余白幅のメモを机に出した。
「この日付帯だけ、記録の空気が違います」
「それも証拠ではない」
「空白は、何もなかった印じゃありません」
法務係の目が、わずかに止まった。
「黙っている頁ほど、誰かが触っています」
部屋が静かになった。法務係は紙の端を揃えるのを止めた。それでも席を立たない。退けるための言葉が、もう見つからないのだと分かる。
◇
廊下へ出ると、リュシアン様が壁際に立っていた。
「通らなかったか」
「証拠としては、まだ。でも、差し戻しもされませんでした」
彼が小さく眉を上げた。どちらも意味を分かっている。完全に退けられなかったということは、この空白に何かが宿っていると、法務係自身も感じ取ったということだ。
「空白は、勝手にできません」
私は窓の外の王都を見た。書類が流れ、封蝋が押され、立会人が帳面に名を加える。その流れの中で、1枚だけ別の白が紛れ込んだ。書けない空白と、作られた空白は、形が違う。5年間、私は書けないことを書けないままにしてきた。その不誠実さが、今夜に限って痛い。
なぜ、この1枚だけ綴じ直す必要があったのか。
その答えに触れた瞬間、全部が変わる気がした。
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