第39話 言いかけた独占が、公になる
公の場には、立ち位置がある。
どこに立つかで、誰の味方かが決まる。誰の矢を受けるかも、ほとんどそこで決まってしまう。その事実を、私は何度も思い知ってきた。けれど昨日、初めて気づいた。自分が立つ場所を選ぶと同時に、他の誰かもそこへ立つ可能性があることを。
神殿脇の控えの間で、係官が名札を並べていた。
神官補。評議会側。第1証人。第2証人。参考人——セレスティーヌ。そしてもう1つ、別の場所に置かれた白木の札。リュシアン・ヴェルトレーゼ。
白木の札は整然としていて、だからこそ残酷だ。人の関係を1枚の板に縮める。
私は自分の名の置かれた位置を見て、それから半歩離れた場所に置かれた彼の札を見た。
近い。けれど、守れるほど近くはない。
「この席順では、あなたにまで矢が行きます」
私が言うと、リュシアンは視線を落とさずに答えた。
「もう来ている」
短い返事だった。昨夜から分かっていた、という声だった。
◇
その直後、敵意だけは上等な貴族がやってきた。笑みは柔らかいのに、言葉だけが冷たい。香油の匂いがきつく、言葉の端々には、「これは親切な提案ですよ」という矯正がついている。
「記録官殿を切り離せば、辺境伯家の体面までは傷みますまい」
その言葉が宙へ落ちた瞬間、時間が止まった。
私は息を止めた。リュシアンがどう答えるかを見るのが怖かった。
公の場はそういう場所だ。私的な気持ちは棚に上げられ、残るのは損得だけになる。そこで彼が合理を選べば、責めることはできない。できないからこそ、怖い。
敵意ある貴族は笑みを保ったまま、白木の札に目をやった。
それは何か言うな、という圧だった。言えば立場が揺らぐ。黙れば、切り離したことが事実になる。
けれど、リュシアンの手が札に触れた。
白木の板を裏返す。名前が見えなくなる。その瞬間、彼はようやく相手を見た。
「体面で食卓は戻らない」
それだけ言って、敵意ある貴族の隣を通り抜ける。肩が触れるほど近い。そして、そのまま廷内へ向かっていく背中は、断定していた。
もう決めた。もう選んだ。
私の胸の奥が、きつく締まった。
◇
公聴が始まると、予想通り、評議会側は私個人の適格性へ矛先をずらしてきた。
禁忌事故の因果ではなく、私情。偏り。過剰介入。仕事そのものを「女の感情」へ落としたいのが見え見えだった。
「昼間の証言から見れば、記録官殿の観察は、特定の方への——」
神官補が言うと、評議会側貴族が続けた。
「私的な配慮が優先されていたのではないか、と。そういう観点から」
私は立つ準備をしていた。喉の奥には言葉もある。禁忌台帳の2層構造。欠落した一行。改訂日のズレ。金の流れ。その全部が、「事故は計画だった」を証明している。
けれど、その前に1歩、彼が出た。
神殿の白い床を踏みしめて、前へ出るリュシアン。公の場で彼が語ることは、もう誰もが無視できない。身分が違い、傷が違い、背負うものが違う。
「彼女の記録を私情と呼ぶなら、事故で済まされなかった者の前で言え」
声は低い。
けれど、祭壇の端までが止まる。
「8日目の午餐会で、何が起きたか。誰が困ったか。なぜ確認が落ちたか。その全部が、記録と順番に書いてある。観察だ。私情ではない」
彼は評議会側をまっすぐ見た。その目に映るのは、もう慈悲ではなく判定だ。
「体面で説明がつくなら、外交も現場も立て直せばいい。だが私には、その体面の前に君たちの損失が見える。そして、それより前に、彼女を傷つけるなら」
彼は言葉を一度止めた。
その間に、場が凍った。
新しい敵が生まれる。彼が辺境伯の身分で前へ出ただけで、既得権力側は脅威を感じた。彼女を守りたいなら距離を保つべき。そう誰もが知っている。けれど彼はそれを選ばなかった。
「切ることはしない」
短い宣言。それだけで十分だった。
◇
公聴は、それから淡々と進んだ。
評議会側は論点を何度も修正し、神官補は証言順を丁寧に読み上げ、証人たちは用意された言葉を守った。
けれど、全部が「先に置かれた言葉」に見えるようになってしまった。
リュシアンが1歩出たことで、彼らの準備がより一層、不自然に浮き上がる。
台本を見抜かれた者たちの、台本を守るための必死さ。
その空気だけが、残った。
◇
夜の食卓は、静かだった。
冷えた皿の前で、私たちは何も言わなかった。リュシアンは箸を取らず、ただ皿を見つめている。
公の場で、自分の身分を削った人間の顔だ。
「庇ってくれて、ありがとう」
私がそう言うと、彼はようやく顔を上げた。
「俺が——」
彼が口を開きかけた。言い始めた何かを。
私は知っている。「俺が君を——」という言葉が、そこにあったことを。
けれど彼は、その言葉を飲み込んだ。代わりに、肩書へ言い直した。
「辺境伯として、責任がある。それだけだ」
嘘だった。
けれど、その嘘が公の場では必要なのだ。私のために公で傷を負った彼は、その傷を「職責」へ言い換えなければならない。そうしなければ、私への感情が「政治の道具」になってしまうから。
冷えた皿が、そのまま残った。
そして私は、その瞬間だけ分かった。
彼が「私の——」と言いかけて肩書に変えた瞬間、次は違う武器が来るんだと。紙で。公文書で。感情を言葉にさせない、もっと冷たい形で。
私たちが並ぶことの代償は、もう既に決まっていた。
公が、それを許さない形で。
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