第156話「塩街道の宿」
塩街道に入ると、空気が変わった。
風に、塩の匂いが混じる。地面が白く痩せて、草が減った。二年前、この道を通ったとき、俺たちは追われる側だった。今は、追う側だ。同じ道でも、歩く心持ちが違う。足の裏が踏む白い土まで、あのときとは違って感じられた。
カルナまで、あと三日という宿場で、俺たちは足を止めた。運び屋のことを聞き込むためだった。宿場は、塩を運ぶ隊商で、それなりに賑わっていた。人の出入りが多い街ほど、話も集まりやすい。
◇
聞き込みは、コッツの役目だった。
元・盗人のコッツは、こういう街の呼吸を知っていた。誰に聞けば、誰が口を割るか。酒場の隅で、二杯目の酒を、他人の話す速さに合わせて飲む。そうやって話を拾う。二年前と、同じやり方だった。
夜、コッツが宿に戻ってきた。
「ザドは、いた」とコッツは言った。「半月前、この宿場を通った。北から来て、南へ抜けた。……子供を、二人、連れてたそうだ」
「二人?」と俺は聞いた。胸の奥が、ざわついた。〈星の間〉が潰れた今も、子が運ばれている。その現実が、二年の旅の手応えを鈍らせた。
「ああ。だが、〈星の間〉の子じゃねえ。別口だ。……ザドは、まだ、子を運んでる。〈星の間〉が潰れても、稼業は変わらねえってわけだ」
コッツの声にも、苦さがあった。この男も、売られる子供だったかもしれない側だ。スラムで、拾われなければ。
◇
俺は、その話を苦く聞いた。二年、旅をして、篩いを止めてきたつもりだった。だが、運び屋はまだ子を運んでいる。俺の背後で、俺が止められなかったところで。
〈星の間〉は、二年前に潰れた。俺たちが、実態を世に出した。だが、子を売り買いする稼業そのものは、消えていない。ザドのような運び屋は、今も子を運んでいる。買い手が変わっただけだ。
篩いは、盤が消えても残る。西の谷で、俺はそれを見た。篩われた者が、篩う側に回る、あの連鎖。子を売る道も、〈星の間〉が消えても残っていた。根を断てていなかった。二年、俺が世に出したのは、篩いの一つの形にすぎなかった。人が人を値踏みし、売り買いする、その根は、もっと深いところに張っていた。
「ザドを、追うか」とヴァンネスが聞いた。
「追う」と俺は言った。「今運んでる二人も、放っておけない。それに、ザドを押さえれば、二年前に散らした子の行方も聞けるかもしれない」
◇
その夜、ニラが手帳を広げていた。
四十七人の頁を、順に繰っていた。俺は、その隣で、名前を唱える支度をしていた。
「リゲル」とニラが言った。「一つ、聞いていい?」
「ああ」
「もし、散らした子が……もう、生きてなかったら。あなたは、その子の名前を、どうする?」
俺は、手を止めた。考えたことがなかったわけではない。四十七人。二年。全員が生きているとは、限らない。
◇
「……唱える」と俺は言った。「生きてても、死んでても。名前は、唱える。俺の、夜の儀式に、加える。……忘れないために」
「死んだ子の名前も?」
「死んだ子の名前こそ、だ」と俺は言った。「生きてる子は、自分で自分を覚えてる。だが、死んだ子は、誰かが覚えてないと、いなかったことになる。……マナが、そうだったろう」
ニラは、頷いた。マナ。メルクで、街道で死んだ子。誰も追わなかった子。ニラの手帳が、最初に拾った名前だった。二年前、あの名を写したとき、ニラは、まだヴェルデの窓口で判子を押していた女の面影を残していた。今は、大陸を歩き、死んだ子の名を濃く書く記録者になっていた。マナの名が、この女を変えた始まりだった。
「私も」とニラは言った。「死んだ子の名前ほど、丁寧に書く。……消えそうな名前ほど、濃く」
◇
俺は、ニラの手帳を見ていた。
二年で、分厚くなった手帳。死んだ子の名前は、確かに濃く書かれていた。ニラの指が、その頁をなぞっていた。まるで、字が薄れないように、押さえるように。何度もなぞった跡が、その頁だけ、少し黒ずんでいた。ニラは、死んだ子ほど、何度も読み返すのだと言った。生きている子は、いつか自分で名乗れる。だが、死んだ子は、この頁でしか、もう名乗れない。だから、消えないように、指で確かめ続ける。
忘れる俺と、覚えるニラ。
俺が忘れても、この女が覚えている。だから、俺は安心して忘れられた。奇妙な話だが、そうだった。継いで忘れることを恐れてきた俺の、たった一つの逃げ場が、この手帳だった。
このまま、いけると思っていた。
◇
翌朝、俺たちは宿場を発った。
ザドの足取りは、南へ、カルナへ向かっていた。俺たちも、南へ向かう。運び屋を追い、その先に、散らした子の行方がある。
リタが、荷馬車の上で、手帳を覗き込んでいた。
「ニラねえちゃん」とリタが言った。「このなまえ、ぜんぶ、おぼえてるの?」
「うん」とニラは言った。「全部」
「すごい」リタは、目を丸くした。「リタ、じぶんのなまえも、ときどき、わすれそうになるのに」
その言葉に、俺とニラの手が、同時に止まった。
◇
リタは、〈星の間〉で、澱を注がれた子だ。姉の記憶を失い、自分の名前も危うい。ときどき忘れそうになる、と、この子は言った。
澱の影響は、消えていなかった。二年経っても、この子の底で、澱は、まだ静かに記憶を削っていた。丘で、ベテルが言った。大事なものほど、深く沈む、と。リタの底に沈んだ澱も、この子の一番大事なもの――姉の記憶を、少しずつ削り続けているのかもしれなかった。
俺は、リタの頭に手を置いた。
「忘れそうになったら」と俺は言った。「ニラに聞け。ニラの手帳に、お前の名前も、ある。……忘れても、そこに、ある」
「うん」とリタは、笑った。「じゃあ、だいじょうぶだね」
大丈夫だ、と俺も思った。忘れても、覚えている者がいる限り。名前は消えない。リタには、ニラがいる。俺には、ニラがいる。皆、この手帳と、この女に、記憶を預けて旅をしている。
俺は、その確信を疑っていなかった。忘れても、ニラが覚えている。だから、繋がっていられる。……そう、信じていた。その確信が、どれほどニラ一人に重くのしかかっているか。そのとき俺は、考えもしなかった。
馬車は、南へ進んだ。カルナは、あと十日だった。




