第157話「二十年分の帳面」
カルナは、来がけに見たときと、変わっていなかった。
白い塩田が、地平まで続いていた。塩を担ぐ蟻の列が、畦道を街へ流れていく。市の日には、塩を売り、かつては子も売った街。その光景は、あのときと同じだった。潮を含んだ風が、白い地面を渡って、頬を撫でた。
だが、一つだけ、違うものがあった。
街の入り口に、木の札が立っていた。「子の売買、これを禁ず」と、彫ってあった。以前にはなかった札だった。まだ新しく、彫った溝が白く見えた。俺は、その札の前で、しばらく足を止めた。あのとき、追われながら通り過ぎたこの入り口に、今、こんな札が立っている。時間が、確かに何かを動かしていた。
◇
宿で、俺はその札のことを、主人に聞いた。
「ああ、あれか」と宿の主人は言った。「少し前、旅の連中が、組合の帳面を写して回った。二十年分の、上納の記録をな。……それが、どこかの街の記録係の手に渡って、方々に写しが出回った。教会が、動けなくなった。それで、街も、子の売買を表向きは禁じたのさ」
俺は、ニラを見た。ニラも、俺を見た。
あのとき、ニラが三日かけて写した、あの帳面。それが、この札になっていた。俺たちが蒔いたものが、めぐりめぐって芽を出していた。西の谷で、痩せた畑に豆が芽吹いたように。記録一冊が、大陸を巡り巡って、この街の入り口に、一本の札を立てた。剣で街を変えたのではない。ニラの、几帳面な字が変えた。
◇
「表向きは、な」とコッツが、低く言った。
その夜、コッツが聞き込んできた話は、札とは裏腹だった。売買は、禁じられた。だが、消えてはいない。表通りから、裏通りへ潜っただけだった。運び屋は、今もこの街を通る。ザドも、その一人だった。
「ザドは、三日前に、カルナに入った」とコッツは言った。「子を二人、連れて。……売り先を、探してるらしい。〈星の間〉がなくなって、買い手が減った。だから、あちこち、回ってる」
「その二人の子は」と俺は聞いた。
「分からねえ。だが、〈星の間〉の子じゃねえ。別口だ。……ただ」
コッツは、言いよどんだ。
◇
「ただ、気になる話を、聞いた」とコッツは続けた。「ザドは、昔から、この稼業だ。かつて、〈星の間〉に子を運んでたのも、ザドの一味だった。……つまり、四十七人を〈星の間〉に運んだのも、あいつらかもしれねえ」
俺は、息を止めた。手がかりのなかった旅に、一本の糸が見えた。
四十七人を〈星の間〉に運んだ運び屋。そして、俺がリディアで散らしたあと、その四十七人を方々に運び直したのも、運び屋だった。もし、ザドがその両方に関わっていたなら。ずっと影のように掴めなかった子供たちの行方が、この一人の男の記憶の中に、あるかもしれなかった。
ザドは、四十七人がどこへ散ったかを、知っている。
◇
「ザドを、押さえる」と俺は言った。
だが、どう押さえるか。ザドは口の堅い運び屋だ。金でも脅しでも、簡単には吐かない。コッツが、そう言っていた。継いで、力ずくで締め上げれば、吐くかもしれない。だが、俺は継がない。
継がずに、ザドを喋らせる方法を、考えなければならなかった。二年、俺はいつも、そうしてきた。継げば楽な場面で、継がない道を探す。獣のときも、澱のときも。今度も同じだった。力ではない、別の鍵が、どこかにあるはずだった。
「ニラ」と俺は言った。「カルナで写した、上納の帳面。あれは、まだ、あるか」
「ある」とニラは、手帳の束を叩いた。「写しは、全部、持ってる」
「その中に、ザドの名は」
ニラの手が、止まった。
◇
「……あるかもしれない」とニラは言った。「上納の記録には、運び屋の名も、書いてあった。どの子を、誰が運んだか。……ザドの名があれば、あいつがどの子を運んだか、分かる」
ニラは、その夜、帳面を繰り続けた。
二十年分の、上納の記録。子の名前、運んだ日、運び屋の名。ニラがカルナで写した、あの記録が、今、ザドを追い詰める武器になる。宿の灯りの下で、ニラの指が、頁を一枚ずつめくっていった。
俺は、その手を見ていた。記録は、覚えるためのもの。突きつけるためのもの。……あのときニラが書いたものが、今、俺たちを助けていた。過去のニラが、今のニラを助けていた。
◇
夜半、ニラが俺を呼んだ。
「あった」とニラは、一つの頁を指した。「ザド。……この名前が、何度も出てくる。二十年、この稼業をしてる。運んだ子の数は……数えきれない」
その頁には、細かい字が並んでいた。運ばれた子の名前。日付。行き先。〈星の間〉。〈星の間〉。〈星の間〉。……延々と続いていた。一つ一つが、一人の子供の、運ばれた記録だった。ザドにとっては、ただの荷の記録。だがニラにとっては、一人ずつの、失われた名前。同じ帳面が、書く者によって、まるで違うものになる。ザドは覚えないために書き、ニラは覚えるために写した。
「これを、ザドに、突きつける」と俺は言った。「お前が、二十年、何をしてきたか。全部、記録に残ってる、と。……喋らなければ、この記録を街に出す、と」
「脅すの?」とニラが聞いた。
「脅す」と俺は言った。「だが、殺しはしない。継ぎもしない。……記録で、追い詰める。メルクと、同じやり方だ」
◇
記録で、追い詰める。
剣ではなく。継承ではなく。メルクで、白い馬車の巡回を、ニラの記録が退けた。同じことを、ザドにする。継がない俺の、戦い方だった。
俺は、その戦い方を誇りに思っていた。
力を使わず、記録で勝つ。奪わず、忘れず、俺のまま勝つ。……二年、それを貫いてきた。丘で、澱を継がずに受け止めたときも。その一点を、俺は守り抜いた。
明日、ザドを追い詰める。継がずに。記録で。
ニラの帳面を、俺は見ていた。二十年分の、子供たちの名前。その一つ一つが、ザドを縛る鎖になる。覚えていることが、力になる。忘れない女の、力だった。
明日、ザドを追い詰める。その先に、四十七人の一人がいる。俺は、そう信じて、目を閉じた。
隣で、ニラが、まだ帳面を繰る音がした。ザドの名を拾い出す作業を、続けているのだろう。その規則正しいペンの音が、俺を眠りへ運んでいった。忘れる俺の隣で、覚える女が、夜通し書いている。二年、変わらない、夜の音だった。




