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継承者は忘れていく ~才無しと蔑まれた狩人は、敵を狩るたび最強に近づき、大切な記憶をひとつずつ失っていく~  作者: あおあお


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第153話「掌に乗せて」


名前を呼ぶたびに。澱が、鎮まっていった。


ニラが書き、俺が受け止め。何百年分の澱が、少しずつ行き場を見つけていく。呑まれた者たちが。名前を取り戻していく。渦を巻いていた黒い光が、名を呼ばれるたびに、一筋ずつ、静かな流れに変わった。


渦の勢いが落ちた。


俺は、渦の中心へ進んだ。ベテルのいる方へ。黒い澱に巻かれて、沈みかけている、育ての親の方へ。一歩ごとに、澱が体にまとわりついた。だが、握らなければ絡みつかない。掌に乗せて、受け流しながら進んだ。


◇


ベテルは、澱の底で目を閉じていた。


自分の集めた澱に呑まれて。何百年、蓋をしてきたものに。今、呑み込まれようとしていた。その顔は、苦しげではなかった。むしろ、長い荷を下ろそうとするような、静けさがあった。


俺は、手を伸ばした。


「ベテル!」


ベテルの目が、薄く開いた。


「……リゲル。来るな」と、掠れた声で言った。「これは、わしの澱だ。わしが集めた。わしが呑まれるのが、筋だ。……お前を巻き込む、わけには」


「筋なんか、どうでもいい」と、俺は言った。「あんたは、俺を、救おうとした。今度は、俺が、あんたを、救う」


◇


俺は、ベテルの手を掴んだ。


掌に火傷のある手。星視盤の水晶を握り、離さなかった手。何百年、他人の記憶を集め続けた手。冷たく、骨ばった手だった。


その手を引いた。澱の底から。


だが、澱はベテルを離さなかった。何百年、絡みついてきた澱だ。ベテル自身の一部になっていた。引き剥がそうとすれば。ベテルが裂ける。


どうする。


継いで、力ずくで引き剥がすか。……いや。継げば、俺がまた失う。それに、力ずくでは、ベテルが壊れる。二年、俺が避けてきた、その安易な力に、ここでも手を出してはいけない。獣のときも、そうだった。継げば勝てる、その誘惑を、峰打ちではねのけた。今度も同じだ。奪う力ではなく、別のやり方があるはずだった。


◇


俺は、ベテルの掌を見た。


火傷の痕。離せばよかったのに、離さなかった痕。……ベテルは、いつも握った。掌が焼けても。守りたいものを。集めたいものを。握って、離さなかった。


だから、焼けた。掌も。守りたかったものも。俺は、そのことを、丘で聞いたばかりだった。良かれと思って握ったものが、いつも焼ける、と。この男は、握ることしか知らなかった。握って、抱え込んで、焼かれ続けてきた。何百年も、たった一人で。


俺は、違うやり方をした。


ベテルの掌を開かせた。握りしめた、その手を。……そして、澱を握るのではなく。掌に乗せた。


開いた掌の上に。澱を乗せる。握らずに。載せておくだけ。


◇


「――握るな」と、俺はベテルに言った。「開け。掌を。……澱を、握るから、離せなくなる。焼けても、握ってしまう。……開けば。乗せておくだけなら。いつでも、手放せる」


ベテルの目が、見開かれた。


「握らず、に」


「ああ」と、俺は言った。「受け止めるのは、握ることじゃない。掌に乗せておくことだ。……重さは、感じる。だが、握らないから、焼けない。離せる」


その言葉は、俺自身が、二年かけて覚えたことだった。継いで、握って、奪うのではなく。受け止めて、乗せて、返す。……ニラの手帳が、記憶を握らずに預かるように。


ベテルが、ゆっくりと掌を開いた。何百年、握りしめてきた、その手を。


◇


澱が。


ベテルの開いた掌から。すべり落ちた。


握られていない澱は。ベテルに絡みつく力を失った。ベテルの一部でなくなった。ただの、行き場のない記憶に戻った。


俺は、その澱を受け止めた。俺の掌にも乗せて。握らずに。


そして、ニラが名前を呼んだ。澱の一つ一つに。呼ばれた澱が、鎮まっていく。行き場を得て。


渦が、ほどけた。黒い霧が、丘の上に薄く広がって。……やがて、朝の光に溶けていった。


◇


丘の上に。俺とベテルが残された。


ベテルは、膝をついたまま、自分の開いた掌を見ていた。何百年、握りしめてきたものを、初めて手放した掌を。


「……軽い」とベテルは言った。「掌が。……こんなに、軽かったのか」


「握ってた、から」と、俺は言った。「重かったんだ」


ベテルの目から。涙がこぼれた。


何百年ぶりかの、涙だったのかもしれない。握りしめることをやめた男の。その涙が、火傷の痕の上を伝って落ちた。何百年、水晶を握った痕。その古い傷を、今、涙が濡らしていた。握ることをやめた掌に、初めて、握るのではないものが触れていた。


◇


隊が、駆け寄ってきた。


ニラが、俺に抱きついた。手帳を握ったまま。ガロが、俺の肩を叩いた。ミレアが、俺の体を確かめた。リタが、俺の手を握った。


「――全部、受け止めたの?」とニラが聞いた。


「受け止めた」と、俺は言った。「そして、取り戻した。……失ってた、記憶を。セラを。じいさんを。父を。……澱の中に、あった。ベテルが、集めてた、俺の、こぼしたものが」


◇


ニラが、俺の顔をじっと見た。


「……それで、全部?」とニラは、静かに聞いた。「戻ってきたの、それで、全部なの?」


俺は、答えに詰まった。全部では、なかった。一つだけ、戻ってこなかったものがある。だが、それが何なのか、俺には言えなかった。冬の空と、背丈の低い誰かと、名前のつかない軋みと。……それを、どう言葉にすればいいのか、分からなかった。


「一つ、届かなかった」とだけ、俺は言った。「古いやつだ。継いでこぼしたんじゃない。もっと前の。……掴みかけて、逃げられた。何だったのかも、分からない。ただ、俺が強くなりたかった、一番底の理由だった気が、する」


ニラの指が、手帳の上で止まった。


ほんの一瞬だった。だが、俺は見た。ニラの目の奥を、何かが過ぎるのを。驚きでも、悲しみでもない。もっと静かな、心当たりのような何かが。だが、確かめる前に、ニラは目を伏せた。


「……そう」とだけ、ニラは言った。「じゃあ、それも、書いておくね。空けて、おく。……いつか思い出したら、教えてくださいって。あなたが、思い出せた、そのときに」


その声が、少しだけ揺れていた。なぜ揺れたのか、俺には分からなかった。分からないことが、そのとき、少しだけこわかった。


◇


継ぐと、失う。だが、受け止めると。戻ってくる。その戦い方を、俺は、この丘で覚えた。


そして、もう一つ。受け止めるのは、一人ではできない、ということも。俺が受け止め、ニラが名を書き、二人で何百年分を抱えた。器と手帳。忘れる者と、書く者。二年前、埋め直しから始まった二人のやり方が、この丘で、一番大きな澱を鎮めていた。


◇


ベテルは、丘に残ると言った。


「わしは、ここで、自分の底を掘る」とベテルは言った。「お前が、教えてくれた。……握らずに、掌に乗せる。わし自身の記憶も、そうやって探してみる。焦らず。一つずつ」


「ああ」と、俺は言った。


「リゲル」ベテルは、俺を見た。「お前は、わしの設計を超えた。道具にするつもりで育てた子が。……わしを救った。掌の開き方を、教えてくれた。……ありがとう」


俺は、頷いた。


二つの墓に、別れを告げた。セルド。母さん。……また、来る。今度は、名前を忘れずに。


そして、隊とともに。丘を降りた。朝の光が、谷を満たしていた。振り返ると、丘の頂で、ベテルが、開いた掌を朝日にかざしていた。何かを探すように。あるいは、何かを手放したことを、確かめるように。その姿が小さくなるまで、俺は見ていた。

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