第154話「発つ、ふたたび」
村を発ったのは、丘を降りてから、三日後のことだった。
その三日、俺たちは村で休んだ。長い旅と、丘での出来事が、体にも心にも、澱のように溜まっていた。ミレアが皆の傷を診て、ガロが村の女たちに鍋を教わり、ニラは手帳を整理した。俺は、二つの墓のある丘を、毎朝見上げた。
ベテルは、小屋にこもっていた。自分の底を掘る、と言った通りに。時々、囲炉裏の煙が細く立つのが見えた。声はかけなかった。あの人には、あの人の時間が要る。何百年、蓋をしてきたものを、一つずつ掌に乗せているのだろう。焦らず。握らずに。
◇
発つ朝、ベテルが小屋から出てきた。
見送りに、というよりは、何かを渡すために。手に、古い革の包みがあった。
「持っていけ」とベテルは言った。「わしが集めた、お前のこぼしたものの、ほんの一部だ。……澱の暴走で、大半は散った。だが、いくつか、器の底に残っておった。書き出しておいた」
包みの革は、手擦れて柔らかくなっていた。何度も開いては閉じられたのだろう。中の紙は古く、黄ばんでいた。ベテルの字で、断片が記されていた。俺が忘れた、小さな出来事。セラが、握り飯を二つに割って分けてくれた日。じいさんが、初めて狼の皮を剥いで見せた朝。……どれも、俺の中には、もう無いものだった。
「返せるものは、返しておきたかった」
◇
俺は、その紙を見ていた。
継いで失った記憶。ベテルが集めていた記憶。その、書き写された断片。読んでも、感情までは戻らなかった。丘で受け止めたときのようには、いかない。紙に書かれた事実は、事実のままだった。文字は、温度を持たなかった。
それでも、俺は礼を言った。事実だけでも、無いよりはいい。ニラが、その紙を手帳に挟んだ。
「これも、記録です」とニラは言った。「あなたが忘れて、ベテルさんが覚えていて、私が挟む。……三人がかりで、一つの記憶を繋いでる」
◇
村の外れまで、ベテルが歩いてきた。
老いない男が、老いた足取りで。何百年も動かなかったこの村から、リゲルという子供を旅に出し、その子が帰ってきて、また出ていく。ベテルは、それを見送る側になっていた。
「どこへ行く」とベテルは聞いた。
「リディアへ」と俺は言った。「〈星の間〉から、四十七人が消えた。その子たちを、探す」
ベテルの目が、わずかに動いた。
「……あそこの子らか」
「知ってるのか」
「いや」ベテルは首を振った。「だが、あの技で、名前を抜かれた子らだ。……探すのは、容易ではないぞ」
◇
「分かってる」と俺は言った。
名前を抜かれた子供を探す。手がかりは、ニラの手帳にある四十七の名前だけ。そのうち六人は、名前すら分からない。番号でしか記録がない。
だが、行く。
二年前、俺は〈星の間〉から、あの子らを連れて逃げた。だが、四十七人を抱えたまま、教会の追っ手は振り切れなかった。手元に残せたのは、リタたち、ほんの数人だけだ。ほかの子らが、その後どこへ流れ、どう生きているのか。俺には、消えた、としか分からなかった。教会は、消えたことすら認めない。四十七人がいたと認めれば、教会がしたことを認めることになるからだ。
誰も探さないなら、俺たちが探す。二年前、あの子らを手放すしかなかった俺が、今は、その一人ずつを迎えに行ける。隊がいて、手帳があって、名前がある。あのときとは、何もかも違っていた。
◇
「リゲル」とベテルが呼んだ。
俺は振り返った。
「一つ、言っておく」ベテルの声は低かった。「名前を返すのは、いいことばかりでは、ない。……忘れて、楽になった子もいる。忘れたまま、幸せになった子もいる。名前を返せば、その子は、忘れていた痛みも思い出す」
「……」
「返すことが、いつも正しいとは、限らん。それだけは、覚えておけ」
覚えておけ、と忘れさせる技を作った男が言った。俺は頷いた。その言葉は、これから旅の先々で、俺を試すことになる気がした。
◇
隊が、村を出た。
ガロ。ミレア。コッツ。ヴァンネス。リタ。シオ。ニラ。そして俺。八人の、小さな隊。二年前、ヴェルデを一人で発った旅が、今は八人で、次の目的地へ向かう。
リタが、俺の隣を歩いていた。
「おにいちゃん」とリタが言った。「よんじゅうななにんの、こ。リタも、しってる?」
「ああ。お前も、あそこにいた。番号で呼ばれてた」
「そっか」リタは、少し考えた。「じゃあ、リタも、さがすの、てつだう。おなじ、ばんごうだったこ、だから」
この子は、番号で呼ばれていた側だ。名前を、危うく失いかけた側。その子が、名前を失った仲間を探す側に回る。俺は、その小さな横顔を見て、頷いた。「ああ。頼む」と言うと、リタは、少し得意げな顔をした。
◇
村が、後ろに遠ざかっていった。
丘の上の木が、最後まで見えていた。二つの墓と、その麓の小屋。ベテルが、まだ立って見送っていた。老いない男が、小さくなっていく。何百年、あの丘の下にいた男が、今、掌を開いて、そこに残る。
俺は、前を向いた。
リディアは遠い。ひと月以上かかる。その道の途中に、消えた子供たちが、散っているはずだった。一人ずつ探して、名前を返す。ベテルの言葉が、耳に残っていた。返すことが、いつも正しいとは限らない。
それでも、行く。
忘れられた名前を、誰かが呼ばなければ、その子はいなかったことになる。マナが、そうだった。誰も追わなかったから、いなかったことにされかけた。ニラの手帳だけが、四十七人が確かにいたと、覚えている。その手帳を、空欄のままにはしておけなかった。
◇
その夜、野営の火のそばで、ニラが手帳を開いた。
四十七の名前。四十一人分は、爪で壁に刻まれた名を、写したもの。残る六人は、番号だけ。三十番。九番。十七番。二十二番。三十八番。四十四番。名前の欄は、空いたままだった。
「この六人にはね」とニラは言った。「私、こう書いたの。いつか思い出したら、教えてください、って」
俺は、その空欄を見ていた。
名前のない六つの空欄。それを埋めるために、俺たちは旅をする。埋まらないかもしれない。埋めても、喜ばれないかもしれない。ベテルの言葉の通りに。
だが、空欄のままでは、始まらない。
火が爆ぜた。俺は、名前を唱えた。母。ミア。セルド。セラ。父。じいさん。……唱えながら、この列にいつか六つの名前が加わることを、思った。




