第152話「戻ってくるもの」
渦が、俺を迎えた。
黒い澱が、俺の体に巻きついた。冷たかった。そして、流れ込んできた。何百年分の記憶が。悲しみが。呑まれた者たちの声が。一気に、俺の空の器に。
継いでいたら、と俺は思った。これを継いでいたら、俺は代償に、大事な記憶を失っていた。継ぐたびに一つ、忘れてきたように。これだけの澱を継げば、何人忘れることか。
だが、俺は継がなかった。ただ受け止めた。
◇
澱の中は、闇だった。
光がなかった。だが、闇ではなかった。無数の消えかけた記憶が、燐のように、ちらちらと光っては消えた。誰かの子供時代。誰かの最後の日。名前を失った者たちの、切れ切れの生が、俺の周りを渦巻いていた。冷たく、重く、あらゆる方向から俺を締め上げてくる。呑まれた者の声が。渦を巻いて、俺の器に流れ込んでくる。頭が割れそうだった。膝が崩れかけた。
受け止めながら、俺は唱えた。名前を。夜の儀式の、名前を。
母。ミア。セルド。セラ。父。じいさん。ベテル。ガロ。ミレア。コッツ。ヴァンネス。……唱えながら、確かめた。一つも欠けていないかを。
欠けて、いなかった。
これだけの澱を受け止めているのに、一つも消えていない。継いでいたら、この列から誰かが消えるはずだった。だが、受け止めるだけなら、誰も消えない。
継ぐと、失う。受け止めると、失わない。それが、俺の体で分かった。理屈ではなく。名前が欠けないことで。
二年、俺はこの違いを、言葉では分かっていた。継がずにこらえれば、忘れずに済む、と。だが、これほどの澱を受け止めて、なお一つも欠けない、という証しを、体で得たのは初めてだった。空の器は、呪いではない。使いようだった。呑まれるためではなく、受け止めるための器に、なりうるのだった。
◇
そして。
澱の中から、何かが戻ってきた。
温かいものが。俺の器の底に。流れ込んでくる澱に混じって。……見覚えのある温かさ。だが、長く失っていた温かさ。
セラだ。
セラの顔は、覚えていた。名前も。だが俺は、セラをなぜ大切に思っていたか、その感情を、継いだときに失っていた。顔はあるのに、心が伴わない。……それが、ずっと寂しかった。
その感情が、戻ってきた。
産婆だったセラが、親を失った俺を気にかけてくれた。……その、ありがたさ。温かさ。なぜセラが大切だったのか。全部、戻ってきた。
◇
澱の中に、あったのだ。ベテルが集めていた。俺がこぼした、その感情を。……今、受け止めることで、それが俺のところに帰ってきた。
顔も知らなかったはずのセラの、その手の温もりまで蘇った。熱を出した俺の額に当てられた、あの手。忘れていた、その感触。涙が出た。澱の中で。
継いだときに失った、セラへの想いが。今、戻ってきた。継ぐと、失う。だが、受け止めると。……失ったものが、戻ってくる。
これが、こぼれた水の行方だった。消えてはいなかった。ベテルの底に溜まっていた。そして今、その底が壊れて、こぼれた水が、元の器へ帰ってこようとしていた。
◇
じいさんも、戻ってきた。
狩りを教えてくれた、じいさん。初めて狼を仕留めた夜、じいさんが俺の肩を叩いた。よくやった、と。……その夜の誇らしさ。じいさんへの感謝。継いだときに押し出された、その感情が、戻ってきた。
父も。ドルクという父。名前しか残っていなかった父。その丸ごとの記憶が。……戻ってくる。父が俺を抱き上げた感触。父の、大きな手。
俺は、澱の中で取り戻していた。失った全部を。ベテルが集めていた全部を。継ぐたびに、こぼしてきたもの。二年の旅で一つずつ、失ってきたもの。それが今、逆流するように、俺の器へ帰ってくる。……皮肉だった。俺を道具にした男の底に、俺の一番大事なものが、そっくり保管されていた。奪われていたのではなく。預けられていた、のかもしれなかった。
◇
だが、一つだけ。戻ってこないものがあった。
ほかの記憶が、堰を切って帰ってくる中で。それだけは、澱の底の、さらに底で。帰る道を、見つけられずにいた。
俺は、手を伸ばした。器の底の、そのまた奥へ。戻ってこようとして、戻れずにいる、何かへ。
――冬の、空だった。
村の冬。雪の匂い。凍えた夜。その下に、小さな影が二つ。片方は、幼い俺。もう片方は……背丈の低い、誰か。その誰かに向かって、俺が、何かを言っている。約束の形をした、何かを。
だが、声が聞こえない。顔も見えない。
掴もうとした。指の先が、触れた。冷たい澱ではない、温かいものに。ほかのどの記憶より、古くて、深い温かさに。胸の奥で、何かが軋んだ。ずっと名前のつかないまま、骨に灼きついていた、あの軋みだ。
これだ、と思った。俺が強くなろうとした、一番底の理由。二年の旅のあいだ、ついぞ分からなかった、あの衝動の出どころ。それが、今、すぐそこに。
――だが、届かなかった。
ほかの記憶のように、帰ってはこなかった。もっと古く、もっと深く。継いでこぼしたものとは、違う場所に、それはあった。奪われ方が、違ったのだ。もっと幼い日に。もっと深く。根こそぎに。
俺は、その温かい何かの、衣の端だけを掴んで。あとは、闇の中へ見送った。
何を見送ったのかも、分からないまま。ただ、頬が濡れていた。セラのときとは、違う涙だった。思い出せないものを惜しむ、涙だった。
◇
だが、澱はまだ締め上げてくる。
戻ってきた記憶で、胸がいっぱいになる。だが、澱そのものは、呑もうとしてくる。受け止めきれなければ、俺も器が壊れて死ぬ。六人の空の器のように。
頭が割れそうになった。膝が崩れかけた。多すぎる。何百年分は、多すぎる。俺の器が、みしみしと内側から軋んだ。
――こらえろ。
俺は自分に言い聞かせた。二年、こらえてきた。継がずに。今も、こらえるんだ。受け止めて。こぼさずに。
だが、澱は、俺のこらえる力を超えようとしていた。一人では、抱えきれない量だった。
◇
そのとき。
声が聞こえた。澱の外から。
「――リゲル! 名前を、言って!」
ニラの声だった。
「あなたが受け止めたものを! 名前を、言って! 私が書く! こぼれても、私が覚えてる!」
俺は、口を開いた。澱の中で。息を吸うと、冷たい澱が喉に流れ込んだ。それでも、声を絞り出した。
セラ。じいさん。父。……そして、澱の中にいる、見知らぬ無数の名前。ベテルが呑んだ者たちの。俺には、その名が、なぜか分かった。受け止めた記憶が、その者の名を俺に教えた。俺は、それを一つずつ声に出した。渦の轟音に負けないように。名を持たなかった者に、名を返すように。
声にした、そばから。ニラが書いていた。澱の外で。
◇
不思議なことが、起きた。
名前を声に出し、ニラが書き留めるたびに、俺の器の負担が軽くなった。
澱は、記憶だ。行き場を失った記憶。呑まれて、名前を失った者たちの。……それが、名前を呼ばれ、書き留められると、落ち着くのだ。行き場が、できたように。安心して、鎮まっていくように。
ニラの手帳が、澱の受け皿になっていた。
俺の器と、ニラの手帳と。二つで、何百年分の澱を受け止めていた。俺が受け止め、ニラが書き、器から溢れたぶんを、手帳が抱える。
一人では、なかった。俺は、一人で受け止めていたのではなかった。丘の上で、渦の中で、俺とニラは、二年前と同じことをしていた。忘れる者と、書く者。二人で、一つの記憶を抱えていた。
そして、渦の勢いが、少しずつ衰え始めた。名を呼ばれ、書き留められた記憶から、順に鎮まっていく。荒れ狂っていた黒い渦が、ゆっくりとほどけ始めた。行き場を得た記憶は、もう暴れなかった。




