第151話「受け止める」
隊が、麓から丘の上に駆け上がってきた。土を蹴る、七人分の足音。
ガロが盾を構えた。片手で。右腕は、七割の力しか戻っていない。だが構えた。ミレアが薬包を握り、コッツが地形を読み、ヴァンネスが渦を睨んだ。皆、走ってきたばかりで息が上がっていた。それでも誰一人、後ろへ退かなかった。
「――なんじゃ、これは」とヴァンネスが言った。
「ベテルが集めた澱だ」と俺は言った。「何百年分の。……蓋を外そうとして、暴れ出した」
黒い渦は、生き物のように脈打っていた。ひと呼吸ごとに膨らみ、縮み、そのたびに周りの空気が、ぞわりと震えた。渦の底から、無数の細い声が聞こえた気がした。呑まれた者たちの、名前を失った声が。何百年、この男の底で、行き場を失っていた声が。
◇
「ベテルさんを、助けるの?」とミレアが聞いた。
一瞬、迷いがあった。この男は、俺を道具にした。篩いを作った。俺の器を空にした。……見殺しにしても、誰も責めない。二年、俺が戦ってきた相手の、大本なのだ。
だが。
「助ける」と俺は言った。「あの中に、ベテルがいる。……それに、あの澱の中には、俺が失った記憶もある。セラも。じいさんも。全部、あそこに」
澱の渦が丘を削り始めた。木がしなり、地面が揺れた。頂の、あの一本の木が、根元からみしみしと鳴った。二つの墓標が渦の風に晒されて、小さく震えていた。セルドとミアの墓。俺が昨日、名前を取り戻したばかりの二つの石。その墓の上で、ベテルの集めた澱が荒れ狂っていた。俺の失った記憶と、ベテルの奪った記憶が、同じ渦の中で混じり合っていた。
◇
俺は、二本の刃を抜いた。短刀と長剣。だが、すぐに気づいた。斬れない。澱は実体がない。黒い、霧のような渦。斬っても抜けるだけだ。
星辰の獣なら、実体があった。だから峰で打てた。だが、これは違う。
渦が触手を伸ばした。黒い澱の腕が、ガロの盾に絡む。ガロが踏ん張る。盾ごと、じりじりと引きずられる。足が地面を削った。二年、無数の敵をこの盾の後ろで受け止めてきた男が、初めて後退させられていた。相手が、実体のない記憶の塊だからだ。斬れず、殴れず、押し返せない敵。
「ぐっ……! 重てえ!」
コッツが縄を投げた。ガロの腰に。皆で引く。だが澱の力は、それを上回った。何百年分の澱は、一隊の力ではびくともしなかった。
◇
斬れない。力でも敵わない。では、どうする。
俺は渦を見据えた。星辰の獣は、澱が獣の形に凝ったもの。だから核があった。核を断てば散った。だが、これは核がない。何百年分の記憶が、ばらばらに渦を巻いている。断つべき一点がない。
頭が疼いた。器の底の一滴が、渦に呼応して跳ねた。同じ澱同士、引き合うように。
――呼ばれている。
その呼び声は、拒むには、あまりに切実だった。行き場を失った記憶が、受け皿を探している。二年、俺が旅先で見てきた、名前を失くした子供たちと同じだった。誰かに受け止めてほしい。ただ、それだけを願っている。
◇
「リゲル!」とニラが叫んだ。「近づいちゃ、だめ!」
分かっていた。空の器の俺があの澱に触れれば、澱は俺の器に流れ込む。何百年分の記憶が。悲しみが。……俺の、空の器に。
呑まれる。
だが。
俺は、ベテルの言葉を思い出していた。空の器は、際限なく注げる。そして――際限なく受け止められる。
六人の空の器は、呑まれて死んだ。器が壊れるまで注いで。だが、俺は継がずに、こらえてきた。二年、ずっと。獣を継がず、澱を継がず、こらえ続けてきた。継げば楽になる、その誘惑を、何度もはねのけてきた。……こらえる器なら、受け止めても、こぼさずにいられるかもしれない。二年の、こらえる訓練が。この一瞬のためにあったのかもしれない。
◇
「――ヴァンネス」と俺は言った。「一つ、聞く。空の器が澱を受け止めたら、どうなる」
「呑まれる」とヴァンネスが即座に言った。「やめておけ。六人が、そうやって死んだ」
「六人は、こらえなかった。注がれるまま、注ぎ返した」と俺は言った。「俺は、二年こらえてきた。……受け止めて、こぼさずに抱えていられるか。試したことは、ない。だが」
「リゲル」
「あの澱の中に、ベテルがいる。俺の失った記憶もある。……見捨てられない」
言いながら、俺は、自分が何を言っているのか分かっていた。二年戦ってきた相手を、助けると言っている。だが、憎めなかった男を、見殺しにもできなかった。
◇
ニラが、俺の腕を掴んだ。
「だめ」とニラは言った。「あなたが呑まれたら、私が埋め直せない。あの澱は、多すぎる」
「ニラ」と俺は言った。「あんたが前に言った。器は借りもの、中身は自分のもの、と。……この空の器は、ベテルが澱を集めるために作った。呑まれるための器だ。だが俺は、その器で、こらえることを覚えた。旅の中で。あんたたちと」
俺は、ニラの手を握り返した。その手は冷たく、震えていた。
「借りものの器で、俺は俺の戦い方をする。……呑まれるためじゃなく。受け止めて、返すために」
◇
ニラは、俺を見つめた。星明かりではなく、澱の放つ黒い光が、その顔を照らしていた。それから手を離した。手帳を握って。
「――受け止めたものを、書く」とニラは言った。「あなたが澱から拾ったものを、全部。……こぼれても、私の手帳が覚えてる。だから」
「ああ」
「絶対、帰ってきて」
その声に、二年分の重みがあった。埋め直し、記録し、そばにいてくれた女の。俺は頷いた。二本の刃を鞘に納めた。この戦いに刃は要らない。斬る戦いではない。受け止める戦いだ。継がずに、奪わずに、ただ受け止める。
俺は、空の器の体一つで、黒い渦に向かって歩き出した。
一歩踏み込むごとに、澱の冷気が肌を刺した。息が白く凍った。渦に近づくほど、頭の奥の疼きが強くなる。器の底の一滴が暴れ、迎えに行こうとする。それでも、足を止めなかった。
渦の中心で、ベテルが待っていた。俺が育てられた男が。俺を道具にし、俺を救おうとした男が。その男を、今度は俺が、受け止めに行く。憎しみでも、許しでもなく。ただ、こぼさないために。




