第150話「二つの名前」
発つ朝、俺は、もう一度丘に登った。
一人で。二つの墓の前に、立つために。
昨日、蓋が割れて、なだれ込んだ記憶は。もう痛まなかった。痛みの代わりに、そこに二人がいた。双子の弟と母が。忘れさせられていた、二人が。
俺は、墓標の文字を、指でなぞった。風化して読めなかった文字。だが、今の俺には読めた。記憶が教えてくれた。指の下の、彫りの浅い溝をなぞるたびに、その文字が、記憶の中の形と重なっていった。
◇
小さい方の墓に。弟の名があった。
セルド。
俺と双子、弟。オリオンの青い左足が俺なら。弟は、その対の足だった。二人で、一つの星座の下に、生まれた。母は、二人に対になる名をつけた。……セルド。俺はその名を口に出した。十一年、忘れさせられていた弟の名を。その名を舌に乗せた瞬間、丘で二人、木の実を埋めた夏の日の、土の匂いまで蘇った。
思い出は、次々と溢れてきた。堰を切ったように。二人で、この丘を駆け上がった。どちらが速いか、競って。セルドは、いつも俺に半歩遅れた。だが笑っていた。負けても笑っていた。俺の、後ろを走るのが好きだと言った。……その声が。その笑い方が。十一年ぶりに、俺の中で鳴った。忘れていたのではない。奪われていたのだ。悲しみごとこの笑い声を。
「セルド」
声が震えた。
だが言えた。弟の名を。やっと。丘に、二人分の笑い声があった理由。もう一人の小さな背丈。それが、今、名前を取り戻した。
◇
もう一つの墓に。母の名があった。
ミア。
セラではなかった。セラは、村の産婆だった女。俺が母だと思い込まされていた人。……本当の母はミア。俺とセルドを産んだ人。あの冬、二人の子を看て力尽きた人。
「ミア」
俺は、その名を唱えた。
母の顔が。もう、ぼんやりではなかった。やつれた顔で。眠らずに。二人の子の額を冷やしていた、母。濡らした布の、冷たさとその手の温かさ。……ミア。俺の母。
熱にうかされた夜。母は、俺とセルドの間に座っていた。左手で俺の額を。右手でセルドの額を。交互に、布を当て替えて。子守唄を、掠れた声で歌っていた。眠るな、と自分に言い聞かせるように。その歌が、今耳の奥で鳴った。歌詞は思い出せない。だが旋律だけは。母の疲れた声のその旋律だけは。
◇
俺は、墓の前に膝をついた。
そして、名前を唱え始めた。夜ではなく、朝に。丘の上で。二つの墓に聞かせるように。
母。……ミアと、俺は言い直した。セラではなく。ミア。本当の母の名を。
そして。
セルド。
儀式になかった名前。十一年、唱えられなかった名前。俺の双子の弟。……その名を母の次に加えた。
二つの、名前が。俺の儀式に帰ってきた。
◇
忘れさせられていた、二つの名前。
ベテルが、俺を守るために消した名前。悲しみごと抜かれた名前。……だが、消えてはいなかった。丘の二つの墓が。ずっと覚えていた。俺が忘れても。石が覚えていた。
トウルが言った。石みたいに覚えたと。
この二つの石も。俺の弟と母を。石みたいに覚えていた。俺が丘に来るのを。十一年待って。忘れる者の代わりに、覚えていてくれるものがいた。人ではなく、石が。だが確かに覚えていた。
俺は、その石に額をつけた。
「ただいま」と、俺は言った。「遅くなった。……セルド。母さん。……やっと思い出した」
◇
風が丘を抜けた。
涙が頬を伝った。だがそれは、昨日の絶望の涙とは違った。悲しいのに。温かい涙だった。失った二人を、やっと正しく悼める。その温かさだった。
十六年生きて。俺は初めて。本当の母と弟に別れを告げていた。
名前を唱えて。忘れないと誓って。
これが、俺の儀式だ。ベテルが教えた儀式。だが、その儀式で俺は今、ベテルが消した名前を取り戻していた。……借りた儀式で、奪われたものを取り返す。器は借りもの、中身は俺のもの。その通りになっていた。
◇
丘を降りると。
ベテルが小屋の前に、立っていた。俺が、丘で何をしてきたか。分かっている顔で。
「――名前を取り戻したか」とベテルは言った。
「ああ」と、俺は言った。「セルドとミア。……あんたが消した二つの名前だ」
ベテルは目を閉じた。
「……よかった」と、ベテルは言った。「わしが、奪ったものを。お前が取り戻した。……それでいい。それが正しい」
◇
「ベテル」と、俺は言った。「あんたも掘れ。自分の底を。あんたが忘れたあんたの名前を。あんたが、愛した、誰かの名前を。……俺の記憶で埋めるんじゃなく。自分の底から掘り出せ」
ベテルは、しばらく黙っていた。
それから、囲炉裏の方を見た。何百年も、独りで燃やしてきた火を。
「……掘ってみよう」とベテルは言った。「お前が、二つの名前を取り戻したように。……わしも、わしの一番古い名前を、探してみよう」
その声に渇きはなかった。
何百年ぶりかに、この男が自分の底を覗こうとしていた。
ベテルは、目を閉じた。自分の底へ。すり切れた記憶の、その奥へ。手を伸ばすように。
◇
そのときだった。
ベテルの体が震えた。
いや。ベテルではない。ベテルの器の底が。何百年、集めてきたものが。揺れた。
「――ベテル?」
ベテルは、答えなかった。掌の火傷が赤く光り始めた。星視盤の水晶を握った痕。何百年、他人の記憶を注ぎ込んできた、その底が。内側から押し上げられていた。
「……しまった」とベテルは、掠れた声で言った。「埋めるのをやめようとした。……底に蓋をしてきた澱が。手放そうとした、その隙に」
ベテルの口から、黒いものが溢れた。
澱だ。
◇
それは、俺が見てきた、どの澱よりも濃かった。何百年分の。集められた記憶の。呑まれた者たちの。悲しみの。……全部が凝った、黒い塊。墨より黒かった。夜より深かった。光を吸い込んでいた。
ベテルの体からそれが噴き出した。口から。目から。掌の火傷から。何百年、器の底に押し込めてきたものが。噴き出す先を、求めて。黒い蒸気が、ベテルの痩せた体を包んだ。
蓋をしていたから、溜まっていた。水を、堰き止めれば溜まるように。ベテルは、何百年その蓋を、握り締めてきた。忘れることで。埋めることで。他人の記憶で、自分の底に重石を載せてきた。……そのベテルが、蓋を外そうと決めた瞬間。重石が消えた。制御を失った澱が、あるじを内側から呑もうとした。積年の澱は、外に出る道を、ようやく見つけたのだ。
「ベテル!」
俺は、駆け寄った。
ベテルが膝をついた。黒い澱が、その体に巻きつき、締め上げていく。何百年、澱を集めてきた男が。今、自分の集めた澱に、呑まれようとしていた。
◇
澱は、丘の上に渦を巻いた。
黒い渦。その中心にベテル。渦はみるみる大きくなった。地面の澱まで揺り起こして。星辰の獣の比ではなかった。何百年分の澱が、一度に目を覚ました。
頭の奥が疼いた。
――この澱の中に。
セラがいる。じいさんがいる。俺がこぼした記憶が。ベテルが集めた、俺の失ったものが。全部この黒い渦の中に。
麓から、隊が駆け上がってくるのが、見えた。ガロが盾を構え。ミレアが薬包を握り。コッツが地形を読み。ヴァンネスが渦を睨む。……そして、ニラが、手帳を胸に抱えて、俺の名を叫んでいた。その声が、渦の轟音を貫いて届いた。
俺は、渦を見据えた。
空の器の俺を。この澱は呼んでいた。




