第149話「問いの答え」
涙が、止まったあと。
俺は、ニラと二人で丘を降りた。ベテルの小屋へ。
小屋の前で、隊が待っていた。ガロ。ミレア。コッツ。ヴァンネス。リタ。シオ。俺が丘で何を知ったかを。知らないまま。だが、俺の顔を見て、何かを察したようだった。
誰も聞かなかった。ただ、そこにいた。ガロが、鍋の火を絶やさずにいた。ミレアが、俺の分の椀を、よそっていた。リタが駆け寄って、俺の手を握った。小さな手だった。……俺が丘で失いかけたものを。この隊の輪が。埋めていた。ベテルが設計しなかった、この輪が。
◇
その夜。
俺は、ベテルの小屋で、ベテルと向き合った。
隊は外にいた。ニラだけが、俺の後ろに。手帳を持って。囲炉裏の火が、二人の影を壁に大きく揺らしていた。
「――ベテル」と、俺は言った。「丘で全部聞いた。あんたが何者か。なぜ、俺を空の器にしたか。俺の記憶を集めて何をしようとしているか。……全部」
「聞いたな」とベテルは言った。「……で、お前は。どうする」
その声に、身構えた様子は、なかった。俺が何を選んでも受け入れる。そういう静かな声だった。何百年、生きてきた男の、覚悟のようなものがそこにあった。
◇
どうするか。
それを、俺は、丘でずっと考えていた。
丘を降りるあいだ、俺は、いくつもの答えを、思い浮かべては捨てた。この男を斬る。この男を見捨てて村を去る。この男を、教会の罪ごと告発する。……どれもできた。だが、どれも俺の胸の底でしっくりこなかった。
だが。
「――俺は」と、俺は言った。「あんたを憎めない」
ベテルの、目が動いた。
「憎もうとした。丘で。……だが、できなかった。あんたは俺を道具にした。だが、あの冬、二つの墓の前で独り泣いていた俺を、生かそうとしたのも本当だった。……その二つが分けられないなら、俺もあんたを憎むことと憎めないことを、分けられない」
二年、旅で見てきた。悪人が一人もいないのに人が死ぬ町。良かれと思って篩う親。……善と悪が、きれいに分かれていないことを、俺は、いくつもの街で学んできた。ベテルも、その一つだった。一番身近な、一つだった。
◇
「だが」と、俺は続けた。「あんたの、やり方は間違ってた」
「……ああ」
「あんたは、俺に聞かなかった。器を空にしていいか、と。記憶を集めていいか、と。……相手のためだと言って、相手に聞かずに決める。それが、あんたの間違いだ。〈星の間〉も同じだ。教会も聞かない。……あんたが教えた技で、教会も聞かなくなった」
ベテルは、俺を見ていた。
「だから」と、俺は言った。「俺は、あんたの記憶集めを止める」
◇
「止める?」
「あんたは、自分を埋めたい。何百年も生きて、すり切れた自分を。……その気持ちは、分かる。俺も、忘れる者だからだ。……だが、他人の記憶で自分を埋めるのは、間違ってる。それは、俺が継いで、他人の技で自分を埋めるのと、同じだ。……借りものの中身で自分を埋めても、それは自分じゃない」
ベテルは、答えなかった。
「あんたが、本当に取り戻したいなら」と、俺は言った。「俺の記憶を集めるんじゃない。……あんた自身の記憶を、探すべきだ。すり切れても、底に沈んでるはずだ。大事なものほど、深く沈む。……あんたが、俺に教えた言葉だ」
俺は、自分の胸に手を当てた。丘で取り戻した、弟と母。あれも、深く沈んで消えずに残っていた。石が覚えていてくれた。……ベテルの底にも、同じように、沈んで待っているものが、あるはずだった。何百年、蓋をされてきた、本物の何かが。
◇
ベテルの、目が揺れた。
「わし自身の、記憶」
「ああ」と、俺は言った。「あんたにも、あったはずだ。厄災戦争の前。老いなくなる前。……誰かを愛して、何かを大事にしていた、あんたが。その記憶は、すり切れても、底に残ってる。俺の記憶で蓋をせずに、……自分の底を掘れ」
「掘って。……何が出てくる」
「分からない」と、俺は言った。「だが、俺の記憶で埋めた自分より。掘り出した、本物の自分の方が。……あんたのものだ」
◇
ベテルは、長いこと黙っていた。
囲炉裏の火が、爆ぜた。何百年も、この囲炉裏で独り燃やしてきた火だった。その火を、ベテルは、じっと見ていた。
「……お前は」とやがて、ベテルは言った。「わしより賢くなった。わしが、教えたことを。わしに、返してくる」
「あんたが、教えたからだ」と、俺は言った。「大事なものほど深く沈む、と。こぼれた水は消えない、と。……全部、あんたが俺に注いだ。その言葉で、今俺はあんたに返してる。……器は借りもの。中身は、俺のもの。あんたが注いだ言葉も、俺がどう使うかは、俺のものだ」
誰から教わったかは、選べない。だが、それを誰にどう返すかは選べる。……旅の中で、少しずつ形になってきたその考えが、今、この囲炉裏の前で、はっきりと言葉になった。俺は、ベテルから教わったもので、ベテルに生き方を返していた。
◇
ベテルは俺を見た。
その目から渇きの色が。少しずつ、引いていくのが見えた。代わりに、何か別のものが。浮かんでいた。
「……お前を、育ててよかった」とベテルは言った。掠れた声で。「道具にするつもりで育てた。だが、お前は道具にならなかった。……わしの設計を超えた」
俺は、その言葉を聞いていた。
道具にするつもりで育てた子が、道具にならず、育てた者に生き方を返す。
それが、俺の答えだった。憎むでも斬るでもなく。……借りものの器で、拾った中身を。育ての親に返すこと。二年の旅で、俺が拾い俺が選んできたもの。その全部が、この一つの答えのために、積み上がってきたように思えた。ニラが、後ろで、ペンを走らせる音がした。この夜のことも、手帳に残されていく。
明日、俺はこの村を発つ。だが、その前に。もう一つ、確かめたいことが、あった。丘の、二つの墓の、ことだった。
記憶は蘇った。だが、俺はまだ二人の名前を、口に出していなかった。弟の名を。母の名を。……それをあの墓の前で、確かめたかった。忘れさせられていた、二つの名前を。俺の声で、う一度呼ぶために。




