第148話「立てない」
俺は、どうしても立ち上がれなかった。
丘の上。二つの墓の前。ベテルの告白を聞いたあと。膝が、地面に根を張ったように。動かなかった。
救いと利用が、同じ。愛と支配が同じ。
眼下の村が、朝日を浴びて白く光っていた。かまどの煙が、幾筋か立ち上っている。人がそこで、当たり前に暮らしている。その、当たり前の景色が、今の俺には、遠い別の世界のように見えた。俺だけが、地面から切り離されて、宙に浮いているようだった。
どれくらい、そうしていたのか。日が、少しずつ傾いていくのだけが、分かった。
「――少し」と、俺は掠れた声で言った。「一人に、してくれ」
ベテルは頷いた。それから、静かに丘を降りていった。俺を、墓の前に残して。その背中が、村へ下りていくのを、俺は、見送ることもできなかった。
◇
一人になって。
俺は、初めて考えを整理しようとした。だが、できなかった。考えがまとまらなかった。
俺のこらえる性質。忘れたくないという心。……あれは、たぶんベテルの仕込みではない。それは、ガロが言った。ニラが言った。器は借りもの、中身は自分のものと。
だが、今聞いたのは。もっと深いことだった。
俺という存在そのものが、ベテルの道具として設計されていた。空の器にされたのも。旅に出されたのも。……全部、ベテルが自分を埋めるため。
◇
器は借りもの。中身は自分のもの。
その言葉で、俺は、こらえる性質の問題は乗り越えたはずだった。
だが、これは。器の問題ではなかった。
旅の、一つ一つの選択。継がないと決めたこと。名を唱えると決めたこと。仲間を拾うと決めたこと。……そのどれもが、俺自身の意志だと信じてきた。その信じてきたものの、足場が音もなく抜けていった。
俺は、どこにもいない。
俺の選択が、全部ベテルのものなら。俺という人間は。最初から存在していなかった。二年の旅で、俺が誇りに思ってきたことの全部が、他人の手のひらの上だった。
◇
俺は、墓標に額をつけた。
冷たい石。弟の墓。母の墓。……あんたたちが、生きていたら。俺は違う人間になっていたか。ベテルに器を空にされることもなく。道具にされることもなく。
だが、あんたたちは死んだ。あの冬の雪の中で。俺だけを残して。
そして、俺はベテルに拾われた。独りで泣き続ける、五つの子を。あの男が小屋に連れ帰った。
拾われて、救われて、道具にされた。……それが、俺の始まりだった。俺の一番古い記憶は、二人の死と、それを消した男の手。そこから、俺は始まっていた。始まりからして、俺のものではなかった。
泣くことすら、できなかった。泣くのは失ったものが、確かに自分のものだったと、信じられるからだ。だが、俺には、自分のものが、何一つ残っていない気がした。泣く資格すら、設計されたものかもしれない。そう思うと、涙は内側で凍りついた。
◇
どれくらい、そうしていたか。
足音が聞こえた。
顔を上げると。ニラが、丘を登ってきていた。麓で待っていたはずの。心配して来たのだろう。
「――降りてこないから」とニラは言った。「ベテルさんが、一人にしてくれ、と言われた、って。……でも、あんまり長いから」
俺は、ニラを見た。
何を言えばいいのか、分からなかった。全部、話すと約束した。だが今、口を開けば。崩れそうだった。
◇
ニラは、俺の隣に座った。
二つの墓の前に。俺と並んで。何も聞かなかった。ただ、そこにいた。俺が口を開くのを、待つように。手帳を、膝に乗せて。風が、彼女の髪を、揺らした。その静けさが、崩れかけた俺を、かろうじて、地面につなぎとめていた。
やがて、俺は言った。
「……俺は、いなかった」
「え?」
「俺の人生は。全部ベテルの設計だった。空の器も。旅も。……俺が、選んだと思ってたことが、全部、あの人の目的のためだった。……なら、俺はどこにもいない。最初からいなかった」
ニラは、しばらく黙っていた。
それから、手帳を開いた。
◇
「――ここ」とニラは、一つの頁を指した。
俺は、その字を追った。
『リゲルが、盤の前で、低く出た子に言った。盤に測れないところに、お前の値打ちがあると』
「これ」とニラは言った。「ベテルさんは仕込んでない。トウルっていう子に、あなたが自分で考えて、言ったこと」
「……だが、それも」
「聞いて」ニラは頁をめくった。「ベテルさんが設計したのは、あなたの器と、旅に出ることまで。……でも、旅の中で、あなたが誰に何を言うか。誰を助けるか。それは設計できない。ベテルさんは、トウルを知らない。ユナを知らない。……あなたが、その子たちに何をしたかを、知らない」
◇
俺は、その頁を見ていた。
トウル。ユナ。ガロ。シオ。橋番の街の子。谷の奥の一家。……ニラが二年、書きためた、俺の拾いもの。頁を繰るたびに、俺が旅で交わした言葉や、渡したものが、几帳面な字で並んでいた。そのどれも、ベテルの手紙には、書かれていないものだった。
「設計されたのは、器」とニラは言った。「でも、その器であなたが何をしたかは、設計されてない。……ベテルさんはあなたを道具にした。でも、その道具が旅の中で何を選んだかは、あなたのもの」
俺は、ニラを見た。
「あなたはいる」とニラは言った。「設計の外に。あなたが、トウルに言った言葉の中に。ユナに渡した豆の中に。……そこに、あなたがいる。ベテルさんの、設計しなかったあなたが」
ニラの声は、静かだったが、揺るがなかった。二年、俺の隣で、それを見てきた者の声だった。設計の内側で生かされた俺が、設計の外で何を拾ってきたか。それを、一番近くで、書き留めてきた者の。
涙が出た。
さっきは、凍りついて出なかった涙が。今度は温かく溢れた。悲しみより、深いところから。抜け落ちた何かの代わりに。温かいものが滲んできた。
設計の外に、俺がいる。ニラの手帳の、その字の中に。ベテルが組んだ人生のその隙間で。俺が、自分で拾い自分で選んだものの中に。……小さいけれど、確かに俺がいた。




