第147話「こぼれた水の行方」
風が、丘を抜けていった。
ベテルは、二つの墓を見ていた。俺も黙って座っていた。愛だったか、支配だったか。……その問いは、宙に浮いたままだった。頂の木の葉が、風のたびに、乾いた音を立てた。
だが、俺には、まだ聞くことがあった。
「――ベテル」と、俺は言った。「あんたは、さっき言った。俺を育てたのには、もっと深い理由があった、と。……空の器にした理由は聞いた。悲しみから守るためだ。だが、それとは別の理由があるんだろう」
ベテルの、背がこわばった。
◇
「……よく、気づいた」とベテルは言った。
「あんたが、言ったんだ。もっと深い理由があると」
ベテルは、しばらく黙っていた。それから、俺に聞いた。
「リゲル。……こぼれた水は、どこへ行く」
二通目の、手紙の言葉だった。こぼれた水は消えん。どこかに溜まっている。旅の途中、何度もその言葉の意味を考えてきた。
「消えない」と、俺は言った。「どこかに溜まってる。……あんたの手紙にあった」
「そうだ」ベテルは、頷いた。「では、聞く。……お前が継ぐたびにこぼした記憶は。どこへ行った」
◇
俺は、答えられなかった。
継ぐたびに、忘れてきた。セラを。じいさんを。父を。……その記憶は、どこへ行ったのか。考えたことも、なかった。ただ、消えたと思っていた。
「消えてはいない」とベテルは言った。「お前が押し出した記憶は、……こぼれた水と同じだ。どこかに溜まっている」
「どこに」
ベテルは、答えなかった。
だが、その目が。ゆっくりと自分の胸を指した。
◇
「――まさか」と、俺は言った。
「お前がこぼした記憶は」とベテルは、静かに言った。「わしのところに来る。……わしが集めている。お前が忘れた、その一つ一つを」
背筋が凍った。
二年、俺は、ベテルの手紙を受け取ってきた。旅の節目ごとに、まるで俺の状況を知っているかのように届く手紙。ヴァンネスは、それを調教だと言った。だが、そうではなかった。もっと直接的だった。ベテルは、俺がこぼした記憶そのものを、受け取っていた。手紙は、その受け取った記憶を頼りに、書かれていた。
ベテル。……手紙で、風の噂を知っていたのも。俺の頭の中を、村を離れずに知っていたのも。全部。俺が旅先で何を忘れたかを、この男は、この囲炉裏の前にいながら知っていた。
「あんたは」と、俺は言った。「俺が忘れた記憶を。集めてたのか。二年、旅する間ずっと」
「集めていた」とベテルは、認めた。「お前が、セラを忘れたときも。……その記憶は、わしのところに届いた。だから、わしは、お前の旅を村にいながら知っていた」
◇
俺は、めまいがした。
俺が失ってきたもの。継ぐたびにこぼしてきた、大事な記憶。それは、消えたのではなかった。ベテルが集めていた。俺の知らないうちに。
セラへの想い。じいさんとの狩りの日々。……俺の中から消えた、そのぬくもりが全部この男の中に、流れ込んでいた。俺が空にした場所から、この男の空いた場所へ。器から器へ、水が低い方へ流れるように。俺が失うたび、この男が少し満ちる。そういう仕組みの中で、俺は二年旅をしていた。
「なぜ」と、俺は言った。「なぜ、俺の記憶を集める。……俺が忘れたものを。あんたが持っていて。どうする」
ベテルは、目を閉じた。
それから、その顔に、これまでで一番深い、渇きの色が浮かんだ。
「わしは」とベテルは言った。「自分を取り戻したいのだ」
◇
「自分を?」
「何百年も生きてきた」とベテルは言った。「その間に、わしは自分を失った。……あまりに長く生きすぎて、わしの記憶はすり切れた。誰だったか。何を愛したか。……もう思い出せない。わしの器の底も、空に近い」
俺は、その言葉を聞いていた。
「わしは、他人の記憶で自分を埋め直そうとした」とベテルは言った。「お前がこぼした記憶を集めて、わしの空いた底に注いで。……もう一度、誰かになろうとした」
◇
他人の記憶で、自分を埋める。
俺が、ニラに記憶を埋め直してもらった、ように。ベテルは、俺の記憶で、自分を埋め直そうとしていた。同じことを俺はニラにしてもらい。ベテルは、俺から奪ってしていた。
「あんたは」と、俺は言った。「俺を。……自分を埋めるための器として育てたのか。俺が忘れた記憶が、あんたに流れ込むように。……そのために、俺を空の器にしたのか」
「……違う」とベテルは言った。だが、その声は弱かった。「最初は違った。……お前を救いたかった。それは本当だ。だが」
「だが?」
「お前を、救ううちに。……欲が出た」
◇
ベテルは、俺を見た。
その目に、愛情と渇きが。分かちがたく混じっていた。
「お前を空の器にして、悲しみから守った。……そのとき気づいた。空の器はこぼす。こぼした記憶は、わしに来る。……ならば、この子を生かして旅に出せば、この子はたくさんの記憶をこぼす。その記憶でわしは、自分を埋められると」
掌が震えていた。二つの墓の、冷たい石の上で。救いと利用が同じ一つのこと。その言葉が胸の中で、何度も反響した。俺は言葉を失った。
「わしはお前を救った」とベテルは言った。「そして、同時にお前を道具にした。……救いと利用が、同じ一つのことだった。分けられなかった。……それがわしだリゲル」
丘の上を風が抜けた。
救いと利用。愛と支配。それは、二つの別のものではなかった。
それが、同じ一つのことだった、と。この男は言った。
俺を、旅に送り出したのも。篩いと戦えと言ったのも。……俺を生かし、たくさんの記憶をこぼさせ、それを集めるための、長い仕掛けだったのかもしれない。二年の旅そのものが。
だが、と俺は思った。それでも、旅で拾ったものは、確かにあった。ガロの椀。ユナの豆。ニラの手帳。……それらは、こぼれなかった。継がずに、抱えてきたから。ベテルの仕掛けの中でも、こぼさずに握り続けたものが、俺にはあった。
俺は、懐の手帳に手を当てた。ニラが二年、書きためた、俺の拾いもの。麓であの女が待っている。




