第146話「空にした手」
「――お前を、空の器にしたのは」とベテルは言った。「わしだ」
分かっていた。だが、本人の口から聞くと。頭が真っ白になった。予感はしていた。掌の火傷。渡す前から用意された弓。空の器だと知っていた、という告白。……全部が、この一点を指していた。だが、予感と、本人の言葉は重さが違った。言葉にされた瞬間、それは、動かせない事実になった。
「弟が死んで、母が死んで、お前は独りになった」ベテルは静かに続けた。「五つの子が、同じ冬に二人を失った。……お前は壊れかけていた。泣き止まず。飯も食わず。ただ、二人の名を呼び続けた」
「……だから、記憶を消したんだろう。それは聞いた」
「それだけでは、なかった」
◇
ベテルは、俺を見た。
「記憶を消しても、お前の器の底には、悲しみが残っていた。……深く沈んで消えなかった。大事なものほど深く沈む。記憶を消しても、その悲しみの澱は残った」
大事なものほど、深く沈む。
ベテルが、昔、俺に言った言葉だった。獣戦のとき、俺自身が思い出した言葉でもあった。今、その一番古い出どころ分かった。
「その澱が」とベテルは言った。「お前を、内側から蝕んでいた。放っておけば、お前はその悲しみの澱に呑まれて、死んでいた。……だからわしは」
ベテルの、声が、震えた。初めて。
「お前の器を空にした。……底の澱ごと。悲しみごと。全部抜いた」
◇
「器を空に」
「星の力を溜める、器の機能を。……壊した」とベテルは言った。「そうすれば、澱は溜まらない。悲しみも溜まらない。……お前は、二度と、あの冬のような悲しみに呑まれずに済む。空の器なら何も溜まらぬ」
俺は、その言葉を聞いていた。
空の器。俺が、呪いのように思ってきた、この器。継ぐたびに忘れる、この器。……それは、ベテルが、俺を悲しみから守るために。器を空にした、結果だった。二年、俺はこの器を憎んできた。継ぐたびに、大事なものを押し出すこの器を。なぜ、俺だけがこんな体で生まれたのか、と。……その問いの答えが、今、目の前にあった。生まれつきではなかった。この男が、幼い俺の器を空にした。悲しみを溜めさせないために。
「あんたは」と、俺は言った。声が掠れた。「俺を悲しみから、守るために。俺の器を壊したのか」
「守った」とベテルは言った。「悲しみから。……あの冬の二の舞にならぬように」
◇
俺は、墓を見た。
弟と母の墓。あの冬、俺を壊しかけた、二つの死。ベテルはそれを、二度と味わわせないために。俺の器を空にした。悲しみが溜まらないように。
良かれと思って。またその言葉だった。
「――だが」と、俺は言った。「空の器は。継ぐたびに忘れる。俺は、この二年継ぐたびに、大事な人を忘れてきた。セラを。じいさんを。……あんたが、俺を悲しみから守るために、空にした器が。俺から、次々と、大事なものを奪ってきた」
「知っている」とベテルは言った。「……すまなかった」
◇
すまなかった。
ベテルが、初めて、詫びた。何百年も生きてきた男が、五つの子から奪ったものを、今、十六になった俺に、詫びていた。その一言に、十一年の時が、詰まっていた。
「わしは、お前を悲しみから守ろうとした。だが、その器がお前に別の苦しみを与えた。……忘れる苦しみを。守ったつもりが、新しい傷を作った」
ベテルは、掌の火傷を見た。
「わしは、いつもそうだ」とベテルは言った。「戦を終わらせようとして、篩いの技を作った。お前を悲しみから守ろうとして、忘れる器を作った。……良かれと思って握ったものが、いつも焼ける。掌も。……守りたかったものも」
◇
俺は、ベテルを見ていた。
悔いの目。何百年も生きて。良かれと思って握ったものに、焼かれ続けてきた男の目。
その気持ちは。分かる気がした。
俺も、同じだからだ。良かれと思って。討った相手の技を継いでは、誰かを忘れてきた。獣の澱は、呑まずにこらえて。だが、こらえきれなくなる日が、いつか来る気がしていた。守りたくて握って。焼けてきた。獣戦で、呑むか呑まぬか迷ったとき。ガロを助けたくて呑みそうになった。守りたい、その一心で。……あのとき呑んでいたら、俺も良かれと思って、誰かを忘れていた。ベテルが、俺を守るために器を空にしたのと、根は同じだった。
ベテルと俺は。似ている。
だが。
「――それでも」と、俺は言った。「あんたは、俺に聞かなかった。器を、空にする前に。俺に聞いたか。悲しみごと、忘れたいか、と。……聞かずに勝手に決めた」
◇
ベテルは、答えなかった。
「〈星の間〉の子供たちも同じだ」と、俺は続けた。「教会は聞かなかった。姉の記憶を、消していいか、と。……あんたも聞かなかった。俺に。弟と母を、忘れていいか、と。器を空にしていいか、と」
「……聞けば」とベテルは言った。「お前はいやだと言った。忘れたくないと。……それが分かっていた。だから、聞かなかった。聞けば救えなかった」
「それが支配だ」と俺は言った。
ベテルの、目が揺れた。
「相手のためだと言って、相手に聞かずに、相手の一番大事なものを奪う。……それを、愛と呼ぶかもしれない。だが、俺には支配に見える」
◇
丘の上を、風が抜けた。
ベテルは、長いこと黙っていた。それから掠れた声で言った。
「……そうかもしれん」
認めた。
「わしのしたことは、愛だったか支配だったか。……わし自身にも分からん。ただ、わしは、お前に生きてほしかった。あの冬、二つの墓の前で独り泣いていた、お前に。……生きてほしかった。それだけは、本当だ」
俺は、二つの墓を見た。
弟と母の墓。その前で独り泣いていた、五つの俺。それを救おうとした男が、今隣にいる。
救い方は間違っていた。だが、救おうとした気持ちは。……嘘ではなかったのかもしれない。
もし、この男が、ただの冷たい支配者だったら。俺は迷わず憎めた。だが、そうではなかった。あの冬、独り泣く五つの子を、救おうとした。その気持ちは本物だった。本物の愛が、本物の支配と、同じ一つの手から出ていた。
それが、かえって。俺を苦しめた。憎みきれない。許しきれない。その、どちらにも行けなかった。




