第143話「丘へ」
朝、ベテルと二人で、丘へ向かった。
隊は村に残した。ニラだけが、麓までついてきた。丘の登り口で、ニラは立ち止まった。
「――ここで、待ってる」とニラは言った。手帳を握って。「降りてきたら、聞かせて。……全部」
俺は、頷いた。
それから、ベテルと二人で、丘を登り始めた。朝露が草を濡らしていた。一歩ごとに、靴が湿った土をつかむ。狩人の足なら、なんということもない斜面だった。だが今朝は、その一歩がやけに重かった。
振り返ると、麓のニラが、まだこちらを見ていた。手帳を胸に抱えて。その姿が登るにつれ、小さくなっていく。俺は、前を向いた。ベテルの白い髪が、朝日を受けて光っていた。この背中を、俺は子供の頃から、追ってきた。狩りの日も名を唱える夜も。今日もまた追っている。だが今日は、その先に何があるのか、分からなかった。
◇
なだらかな丘だった。
緑の斜面。頂に、一本の木。子供の頃、この丘に登ったことがあるはずだった。だが、その記憶は、蓋の向こうにあった。登るほどに頭の奥が疼いた。
奇妙な疼き方だった。痛いのに懐かしい。頭の芯を、細い針でなぞられるような。その針が、忘れさせられた何かの、輪郭を内側から確かめているようだった。一歩上がるごとに、輪郭が少しずつ、はっきりしていく。足の裏は、この斜面を覚えていた。どこに石があり、どこがぬかるむか。頭より先に、体が次の一歩を選ぶ。何度も、この丘を登った体だった。誰かと。手をつないで。……その感触の残りが、掌の内側に、うっすらと蘇りかけて、また蓋に押し戻された。
ベテルは黙って登った。
六十年、老けない男の足取りは確かだった。老人の姿なのに、息一つ切らさない。俺の方が、時々、立ち止まった。頭の痛みで。そのたびに、ベテルも足を止め、俺が歩き出すのを待った。急かしはしなかった。ベテルの背中は、何かを覚悟しているように見えた。二年ぶりに帰った俺を、この丘へ連れてくること。それを、この男はずっと前から、決めていたのかもしれない。俺が、いつか帰ってくると信じて。あるいは、いつか帰ってくるように仕向けて。
「――無理を、するな」とベテルは言った。「蓋は上で開ける。ここで、こじ開けようとすると、痛むだけだ」
◇
中腹で、ベテルが足を止めた。
振り返ると、村が小さく見えた。谷の底の十数軒。煙が幾筋か。朝の光が、その屋根を、白く光らせていた。あの村のどこかで、俺は生まれた。だが、生まれた家がどれか、俺には分からなかった。
「――お前が生まれた村だ」とベテルは言った。「小さいがいい村だ。……お前は、ここで生まれた。十六年前に」
「俺の親は」と、俺は聞いた。「どこにいる。村の連中は、俺の親のことを話さない。まるで口止めされてるみたいに」
ベテルは、しばらく村を見ていた。
「……口止めは、しとらん」とベテルは言った。「村の者は忘れとるんだ。お前の親のことを。……わしが、忘れさせた」
◇
忘れさせた。
村人全員に。俺の親のことを。
「なぜ」と、俺は言った。声が掠れた。
「上で話す」とベテルは、また登り始めた。「もう、少しだ」
俺は、その背中を追った。
頭が、割れそうに痛んだ。丘を登るほどに。蓋が、内側からこじ開けられようとしているように。この丘に、俺の忘れさせられた記憶がある。村人ごと、消された俺の親の記憶が。
その痛みの奥で、声が聞こえた気がした。幼い声。俺自身の昔の声。誰かを呼んでいる。名を呼んでいる。だが、その名が聞き取れない。蓋がその名だけを、押さえつけていた。その名を、思い出そうとすると、こめかみが脈打った。喉まで出かかっている。俺は、確かにその名を、何百回も呼んだことがある。この丘で。あの木の下で。……なのに、口が開かない。忘れさせられたのは、ただの記憶ではなかった。俺が、一番多く呼んだはずの、一つの名前だった。
それを、開けるために。俺は、二年の旅を経て、ここまで来た。
◇
頂に近づいた。
一本の木が、大きく見えてきた。古い大きな木。葉を落とした枝が、朝の空に細く広がっている。その根元に、何かあった。石だ。低い石が二つ。並んでいる。
それを見た瞬間。蓋が軋んだ。
頭の奥で、何かが決壊しそうになった。あの石を、俺は知っている。あの木の下の二つの石を。……子供の頃、俺はあそこにいた。誰かと。もう一人の誰かと。その記憶は、まだ形にならなかった。ただ温度だけが蘇った。隣に、誰かの体温があった。俺と同じくらいの背丈の、小さな体温。二人で肩を寄せて、あの木の下に、しゃがんでいた。夏の暑い日だった。土が乾いていた。
背丈の同じ誰か。俺と並んで、あの木の下に、しゃがんでいた。二人で、何かを見ていた。土に埋めた何かを。
「――あれは」と、俺は言った。声が、震えた。「あの石は何だ」
ベテルは答えなかった。
ただ、木の下へ歩いていった。二つの石の前へ。その足取りは、丘を登るときより、ずっと遅かった。一歩ごとに、何か重いものを、踏みしめるように。
◇
俺は、その石に近づいた。
一歩ごとに頭が痛んだ。だが、止まらなかった。止まれなかった。石が俺を呼んでいた。蓋の向こうから。
風が、頂の木を鳴らした。枝が低く軋む。その音に混じって、また、幼い声が聞こえた気がした。今度は、少し近かった。二人分の笑い声だった。俺ともう一人。あの木の下で何かを埋めて、それを二人で、笑いながら見ていた。宝物でも埋めるように。……その先が思い出せない。埋めたものが何だったのか。もう一人が、誰だったのか。
二つの石。低い丸い石。よく見ると。
それは墓だった。
小さな墓標。文字は風化して読めない。だが、墓だと分かった。二つ並んだ小さな墓。片方は、大人の背丈ほどの長さ。もう片方は、ひどく小さかった。子供の墓のように。
俺は、その小さい方の墓の前に、しゃがんだ。膝が勝手に折れた。まるで、体が何度もそうしてきたことを、覚えているように。掌が冷たい石に触れた。その冷たさが、蓋の最後の一枚に触れた。
その、小さい方の前に立ったとき。
蓋が。
割れた。




