第142話「丘へ登る前に」
その日は、丘には登らなかった。
ベテルが、明日、と言ったからだ。俺も、それでよかった。掌の火傷の話だけで、胸がいっぱいだった。あれ以上、一日で受け止めるのは無理だった。
昼間、俺は村を歩いた。
記憶の中の村と、少しずつ重ねながら。井戸。山羊小屋。子供の頃遊んだ沢。……どれも、覚えていた。だが、やはり、一番小さい頃の記憶は抜けていた。誰と遊んだのか。親はどこにいたのか。
村人に、俺の親のことを聞いてみた。だが、皆、言葉を濁した。年寄りたちは、俺の顔を見て、何か言いかけて、口をつぐんだ。……まるで、俺の親のことを話してはいけない、と決められているように。ベテルに口止めされているのか。それとも、村人も忘れさせられているのか。……この村全体に、大きな蓋が、そっとかぶせてあるようだった。
◇
夕方、俺は、隊のところへ戻った。
納屋の前で、ガロが鍋を煮ていた。片手で鍋を押さえ、シオが両手で玉杓子を回していた。二人で、一人前のいつもの姿。それを見て、少し心が落ち着いた。夕日が、谷の斜面を赤く染めていた。山の稜線の向こうに、日が沈んでいく。その光の中で、鍋から立つ湯気だけが、白く見えた。塩と干し肉の匂い。二年、旅の夜ごとに嗅いできた匂いが、生まれ故郷の夕暮れに、混じっていた。
「――どうだった」とガロが聞いた。「じいさんと」
「……色々、分かった」と、俺は言った。「掌の火傷は、教会の水晶を握った痕だった。……ベテルは、教会と関わりがあった。それと、俺が、空の器だと、盤にかける前から知ってた」
隊が、静かになった。
◇
「明日」と、俺は続けた。「丘に登る。ベテルと二人で。……そこで、全部話す、と言われた。俺が、なぜ、空の器なのか。誰がそうしたのか」
「二人で、大丈夫?」とミレアが聞いた。「その丘で。何をされるか」
「されるとしても」と、俺は言った。「俺が行かなきゃ、始まらない。……ベテルは、たぶん、俺を傷つけようとはしてない。もっと別の何かだ」
「別の、何か」
「分からない」俺は正直に言った。「だが、あの掌の火傷をした男が。何かを握って、離さなかった男が。……俺を呼んでる。丘に。それが何なのか。確かめたい」
◇
ヴァンネスが、口を開いた。
「坊主。……一つ、言っておく」老兵は、低く言った。「わしは、二年前、ベテルの手紙を見て、これは調教だ、と言った。今も、その考えは変わらん。あの男は、二年かけて、お前を遠隔で動かしてきた。手紙一つで」
「ああ」
「じゃが」ヴァンネスは、続けた。「昨夜、あの男と飯を食って、一つ分からなくなった。……調教する者の目じゃなかった。あの、お前を見る目は。……もっとこう。悔いのようなものが、あった」
悔い、という言葉。
俺もそれを感じていた。掌の火傷を話すときの、ベテルの目。あの、悲しみのような、悔いのような色を。
◇
「悔いてる者が、なぜ調教なんかを」とコッツが言った。
「分からん」ヴァンネスは、首を振った。「じゃが、人は戸惑いながら、悪いことをすることがある。……止められずに。そういう、業のようなものが、あの男にはあるのかもしれん」
俺は、その言葉を聞いていた。
悔いながら、止められない。……掌を焼かれても、握ったものを離さなかった、ように。ベテルは何かを握って、離せずにいる。それが俺なのかもしれない。
焼けても離さない。俺を。
◇
その夜、俺はニラと二人で話した。
隊が、寝静まった後。納屋の外で。星が出ていた。丘の上の木が、闇の中に黒く立っていた。
「――明日」と、俺は言った。「丘で全部分かる。……俺が、どう作られたか。誰が俺を空の器にしたか。……たぶん、ベテルだ」
「うん」
「怖い」と、俺は言った。ニラにだけは、正直に言えた。「もし、全部ベテルの仕込みだったら。俺のこらえる性質も。忘れたくないという、この心も。……全部、あの男が作ったものだったら。俺は、どこまでが俺なのか、分からなくなる」
◇
ニラは、手帳を開いた。
星明かりの下で。頁を繰って。
「――ここ、読んで」とニラは、一つの頁を指した。
俺は、その字を追った。ニラの、几帳面な字。そこには、こう書いてあった。
『リゲルが、ガロに椀を二つ選ばせた。取っ手のない椀を、シオのために。……これは、ベテルが仕込んだことではない。リゲルが、旅の中で自分で考えたこと』
次の頁。
『リゲルが、ユナに種を渡した。宿の主の面子を潰さずに。……これも、ベテルは知らない。リゲルが、ロウデで学んだこと』
◇
「これ、全部」とニラは言った。「あなたが、旅の中で拾ったこと。ベテルが仕込んでないこと。……私、書きためてたの。この日のために」
俺は、頁をめくった。
ガロの椀。シオの手。ユナの豆。トウルの覚えた、という言葉。橋番の街で、面子を潰さずに橋を開けたこと。西の谷で、豆を届けたこと。……全部、そこにあった。俺が二年で拾ってきたもの。
「明日、あなたが」とニラは言った。「もし、全部ベテルの仕込みだと知って、崩れそうになったら。……これを見て。これは、仕込みじゃない。あなたが拾ったもの。器は、ベテルのものでも、この中身は、あなたのものだって」
◇
俺は、その手帳を握った。
星明かりの下で。ニラが二年書きためてきた、俺の拾いもの。表紙の革は、二年の旅で手の脂を吸って、飴色になっていた。角は擦り切れ、綴じ糸が、ところどころ、ほつれている。この一冊が大陸を俺と一緒に歩いてきた。
「――ありがとう」と、俺は言った。
「まだ、礼は早いよ」ニラは、少しだけ笑った。「明日、丘から無事に降りてきて。そのときに、言って」
「ああ」
俺は、丘を見上げた。
明日、あの丘で俺は、俺の始まりを知る。ベテルが、俺に何をしたのかを。……だが、一人ではない。この手帳がある。二年の拾いものがある。そして、崩れたら支えると言ってくれる女が、いる。
星が、丘の上の木の向こうで瞬いていた。その光の一つ一つが、遠い昔から、変わらずそこにあるもののように、静かだった。俺の始まりも、あの丘の上で、ずっと、俺が来るのを待っていたのかもしれない。




