第141話「掌の火傷」
翌朝、俺は早くに目を覚ました。
隊は、まだ眠っていた。小屋の外の、納屋に雑魚寝している。ニラだけが、起きて手帳を開いていた。俺と目が合うと、小さく頷いた。行ってきて、というように。小屋の中は薄暗かった。窓から差す朝の光が、床に、細長い帯を作っている。その帯の端に、ベテルの背中があった。微動だにせず、火を見ている。まるで、夜のあいだ、一度も動かなかったように。
ベテルは、囲炉裏のそばにいた。
一晩中、そこにいたような佇まいで。俺が、起きるのを待っていたように。
「――早いな」とベテルは言った。
「あんたも」
「年寄りは、朝が早い」ベテルは笑った。「座れ。茶を淹れよう」
◇
ベテルが、茶を淹れた。
その手を俺は見ていた。皺の刻まれた手。節くれだった、指。……そして、掌に、古い火傷の痕があった。
子供の頃から、そこにあった痕だった。俺は、それを見慣れていた。だが、二年旅をして、いろんな傷を見てきた目で改めて見ると。
妙な、火傷だった。
掌の真ん中に丸く。まるで、何か熱いものを握り続けたような。
狩人は傷を読む。獣の傷なら、牙か爪か。人の傷なら、刃か火か。……この火傷はどれとも違った。火に、かざしただけの痕ではない。何か、丸いものを、掌に押しつけて。それが、焼けるほど熱かったのに。それでも離さなかった。そういう痕だった。握った本人が、離さないと決めなければ、こうはならない。
◇
「――その、火傷」と、俺は聞いた。「どうやって、できたんだ」
ベテルの、手が止まった。
一瞬だけ。それから、また、動いた。茶を俺の前に置いた。
「昔のことだ」とベテルは言った。「若い頃。……熱いものを握った」
「熱いもの?」
「ああ」ベテルは、自分の掌を見た。「握ってはいけないものを握ってしまった。……離せばよかったものを離さなかった。だから、焼けた」
その言葉には、火傷の話以上の何かが、あった。ベテルの声は、いつもと同じ、穏やかな低さだった。だが、言葉の選び方が、妙に慎重だった。握ってはいけないもの。離せばよかったもの。……それが、ただの熱い道具の話でないことは、狩人の勘が告げていた。
◇
俺は、その手を見ていた。
掌の真ん中の火傷。丸い痕。……ふと、思い出した。星視盤の水晶を。あれも丸い。掌に乗るくらいの。
「――星視盤の、水晶を、握ったのか」と、俺は聞いた。
当てずっぽうだった。だが、口に出してから、確信に変わった。
ベテルは、答えなかった。だが、その沈黙が答えだった。
「あんたは」と、俺は言った。声が少し震えた。「教会の道具を握ったことが、あるのか。……星の力を、測るあの水晶を」
「握った」とベテルは、静かに言った。「昔な。……離せばよかった。だが、離さなかった。それで焼けた。掌も。……ほかのものも」
◇
ほかのもの。
その言葉が、宙に浮いた。ベテルは、それ以上言わなかった。茶をすすった。俺もつられて、茶を口に含んだ。温かかった。
二年前なら、ここで話は終わっていた。じいさんの昔話。それ以上詮索しない。……だが、今は違う。
「ベテル」と、俺は言った。「あんたは、狩人だったと言った。若い頃、大陸を歩き回ったと。……だが、教会の水晶を、握ったことがある。狩人が、なぜ教会の道具を」
「狩人は」ベテルは、俺を見た。「いろんなものを握る。獲物も。道具も。……時には、握ってはいけないものも」
◇
その目を、俺は見返した。
穏やかな目だった。二年前と同じ。育ての親の目。だが、その奥に、俺の知らない深いものが、沈んでいた。六十年、老けない男の目。教会の水晶を、握った男の目。
「――もう一つ、聞きたい」と、俺は言った。
「聞け」
「弓のことだ」俺は言った。「あんたが、俺に、初めて、弓をくれた日。……覚えてるか」
「覚えとる」
「あのとき、あんたは、一度も聞かなかった。俺に。……狩人になりたいか、と」
ベテルの目が、わずかに動いた。
◇
「普通、そうだろう」と、俺は続けた。「子供に弓を渡すなら、狩人になりたいか、と聞くだろう。……だが、あんたは聞かなかった。ただ、弓を俺の手に握らせた。まるで、俺が狩人になることが、最初から決まっていたように」
ベテルは、答えなかった。
「あの弓の弦は」と、俺は言った。「鹿の腱だった。……獣脂と塩の匂いがした。何日も懐で温めていた、匂いだった。渡すずっと前から、あんたは、あの弓を俺のために用意していた」
「……よく、覚えとるな」とベテルは言った。
「忘れないことに、命をかけてきたからな」
◇
「渡す前から」と、俺は言った。「あんたは知っていた。俺が狩人になることを。俺の指が、星の力に届かないことを。……盤にかける前から、俺が空の器だと知っていた」
小屋が、静かになった。
囲炉裏の火が、爆ぜる音だけがした。
ベテルは、長いこと、黙っていた。それから、茶碗を置いた。
「――リゲル」とベテルは言った。「お前は賢くなった。二年で。……昔は、こんなことを問う子ではなかった」
「答えてくれ」と、俺は言った。「あんたは、渡す前から、知っていたのか。俺が空の器だと」
「知っとった」
あっさりと、ベテルは認めた。
◇
俺は、息を呑んだ。
認めた。あっさりと。俺が生まれつき空の器だと、盤にかける前から知っていた、と。
「なぜ」と、俺は言った。「なぜ、知っていた。盤もないのに。俺が空の器だと。生まれつき、星の力を持たないと。……なぜ、あんたにそれが分かった」
ベテルは、俺を見た。
その目に、初めて、これまでと違う色が浮かんだ。悲しみのような。あるいは悔いのような。……そんな、色が。
「それを話すには」とベテルは言った。「丘に行かねばならん」
丘。
あの丘だ。俺の、一番古い記憶の一番奥にある丘。
「明日」とベテルは言った。「丘に登ろう。二人で。……そこで全部話す。お前が、なぜ空の器なのか。誰がそうしたのか。……全部だ」
囲炉裏の火が、また爆ぜた。
小屋の窓から、あの丘が見えた。頂の木が、朝の光を受けて、細い影を斜面に落としている。二年、思い出せなかった記憶。その一番奥に、あの丘があった。
俺の問いの答えは。あの丘の上にある。明日、俺はあそこへ登る。忘れさせられた、一番古い記憶の場所へ。




