第140話「ただいま」
村は、記憶より小さかった。
谷の底に、十数軒の家が寄り集まっている。畑と、山羊。細い煙が、幾筋か立っている。二年、大陸の大きな街を見てきた目には、あまりに小さかった。石垣で囲った小さな畑が、斜面に段を作っている。山羊が数頭、痩せた草を食んでいた。街の噴水も、白い石畳もここにはない。あるのは土と石と、家畜の営みだけだった。それが、俺の始まりの景色だった。
だが、懐かしさは、大きさとは関係なかった。
村の入り口に立った瞬間。胸の底が締めつけられた。ここだ。俺が生まれた場所。二年、帰らなかった場所。土の匂いも、山羊の鳴き声も、二年前と同じだった。体の奥が、それを覚えていた。
◇
村人が俺に気づいた。
畑にいた老婆が、鍬を止めた。それから目を見開いた。
「――リゲル、かい」
「……ばあちゃん」と、俺は言った。名前がすぐには出てこなかった。だが、顔は覚えていた。
「まあ。まあ、まあ」老婆は、鍬を放り出して、駆け寄ってきた。「生きて。……生きて、帰ってきたのかい。二年便りもなく。ベテルさんが心配して」
ベテル。その名を聞いて、俺の心臓が跳ねた。
◇
「ベテルは」と、俺は聞いた。「小屋にいるか」
「いるよ。いつも通り小屋に」老婆は言った。「あの人は、変わらないねえ。あたしが子供の頃から、あの小屋に、あの姿で。……六十年、ちっとも老けない」
六十年。老婆が子供の頃から。同じ姿で。
二年前、この村を出るとき、俺はそれを不思議に思わなかった。ベテルはじいさんだ。ずっと、じいさんだった。……だが、今は違う。六十年、老けない人間は、いない。
ヴァンネスと目が合った。老兵も、その言葉を聞いていた。
◇
「――行くか」と、ヴァンネスが低く言った。
「ああ」
「一人で行くか。それとも」
「一緒に、来てくれ」と、俺は言った。「だが、小屋には、俺とニラだけで入る。……残りは、外で待っててくれ」
なぜ、そう言ったのか、自分でも分からなかった。ただ、大勢で押しかけるのは、違う気がした。これは、俺とベテルの問題だ。そしてニラは。……崩れたときに、支えると約束してくれた。だから、ニラだけはそばにいてほしかった。
◇
小屋は、村の外れにあった。
山の麓。あの丘のすぐ近く。二年帰らなかったが、小屋は記憶の通りだった。古い木の小屋。煙が一筋。薬草の匂い。……子供の頃、毎日嗅いでいた匂い。
扉の前で俺は立ち止まった。
心臓が、痛いほど速かった。この扉を開ければ、ベテルがいる。二年ぶりの育ての親。そして俺が問おうとしている相手。
俺は扉に手をかけた。
◇
開ける前に、中から声がした。
「――帰ったか、リゲル」
ベテルの、声だった。
俺が名乗る前に。扉を叩く前に。ベテルは、俺が来たことを知っていた。
背筋が冷えた。二年前なら、勘のいいじいさんだ、で済ませただろう。だが、今は違う。……村を、一度も離れていない男が。なぜ、俺が帰ったと分かる。
俺は扉を開けた。
◇
ベテルは、囲炉裏のそばに座っていた。
二年前と同じ姿で。白い髪。皺の刻まれた顔。だが、その背はまっすぐで、目は鋭かった。老人の姿をした、何か。……そう見えた。今は。
「……ただいま」と、俺は言った。
二年、言えなかった言葉が、口をついて出た。問いより先に。恨みより、先に。ただいまが出た。
この男に育てられた。狩りを教わった。名前を唱えることを教わった。……その全部が、調教だったとしても。俺の口は、ただいまと言った。
「おかえり」とベテルは言った。「大きくなったな」
◇
ベテルは、俺に座れと言った。
囲炉裏を挟んで。二年前と、同じ位置に。俺は座った。ニラが、俺の少し後ろに座った。手帳を握って。
「連れがいるな」とベテルは、ニラを見た。「記録をつける娘か。……ずいぶん、いい仲間を拾ったな」
「知ってるのか」と、俺は聞いた。「ニラのことを」
「便りは、なかったがな」ベテルは、囲炉裏の火をかき混ぜた。「風の噂は届く。……〈鉄樹〉の一行が、大陸で教会の巡回を止めて回っている、と。その中に、記録をつける娘がいる、と」
風の噂。二年前なら、信じただろう。だが、俺は、もう知っている。ベテルの「噂」は、噂ではないことを。
◇
「ベテル」と、俺は言った。「聞きたいことがある」
「聞きたいことが、多かろうな」ベテルは、火を見たまま言った。「二年、旅をして。いろんなものを見て。……お前の器のことも、少しは分かったろう」
「ああ」
「じゃが」ベテルは、顔を上げた。「今夜はやめておけ」
「なぜ」
「長旅で疲れとる。連れも、腹をすかせとる」ベテルは、立ち上がった。「積もる話は、飯を食ってからだ。……問いは逃げん。わしも逃げん。二年、待ったんだ。一晩くらい、どうということはない」
逃げん、とこの男は言った。まるで、俺が何を問うか知っているように。
◇
その夜、俺たちは、ベテルの小屋で飯を食った。
隊も呼んだ。ベテルは、大鍋で山羊の汁を煮た。二年前、毎晩食べた味。俺が、名前を唱える儀式を教わった、あの囲炉裏で。
ガロが、その汁をすすって言った。「うめえな、じいさん」と。ベテルは、笑った。穏やかに。まるで、本物の優しい老人のように。
俺はその顔を見ていた。火明かりの中で、ベテルの皺が、深く陰を刻んでいた。笑うたびに、その陰が動く。優しい老人の顔。二年、俺が慕ってきた顔。その同じ顔が、今は、底の見えない井戸のように、見えた。
ヴァンネスが、ベテルに話しかけていた。狩人だったそうですな、と。ベテルは頷いた。若い頃、大陸を歩き回った、と。ヴァンネスは、それ以上、聞かなかった。だが、老兵の目は笑っていなかった。二年前、ヴァンネスは、ベテルの手紙を見て、これは調教だ、と言った。その男と、今、同じ囲炉裏を囲んでいる。何を考えているのか、俺には分からなかった。
明日、この顔に問う。俺をこう作ったのは、あなたかと。……だが今夜は。この、あたたかい汁と穏やかな顔を、ただ受け取ることにした。
それが嘘だとしても。二年ぶりの、ただいまの夜くらいは。
山羊の汁は、記憶の通りの味だった。塩が少しきつい。ベテルの汁は、昔からそうだった。その塩加減までも、俺の舌は覚えていた。忘れさせられたものが多い中で、この味だけは残されていた。




