第139話「丘が見えた」
村まで、あと、三日の道のりだった。
道は、記憶の通りになっていた。もう、地図は要らなかった。俺の足が、道を覚えていた。この沢を渡れば、次は松の林。林を抜ければ、赤い岩の、崖。……体が先に知っていた。
それが、かえって不気味だった。
頭は忘れているのに、足は覚えている。まるで、頭の記憶だけが消されて、体の記憶は残されたように。一歩ごとに、次の景色が来る前に分かった。分かることが怖かった。俺の頭は、この道を知らないと言う。だが、俺の脚はこの道を何百回も歩いたと言う。二つの記憶が、体の中で食い違っていた。
狩人の記憶は、体に宿る。じいさんが、そう言っていた。獣の追い方は、頭で覚えるんじゃない、体で覚えるんだ、と。……もし、俺の頭の記憶を、誰かが消したのだとしても。体に染みた記憶までは、消せなかったのかもしれない。だから、足だけが、道を覚えている。消し忘れられた記憶のように。
◇
二日目の夕、俺は、一つの場面を思い出した。
松の林を抜けたとき。不意に蘇った。……幼い俺が、この林で泣いていた。誰かを探して。母さん、と、呼びながら。
だが、その記憶はそこで切れた。
母さんと呼んだ、その先がない。母が来たのか。来なかったのか。……そこに、また蓋があった。触れると、頭が痛んだ。
俺は立ち止まった。汗が額に滲んでいた。林の梢が風に鳴った。その音の中に、幼い泣き声の残響が、混じっている気がした。母さん、母さん、と。俺はその声を振り払うように、頭を振った。
◇
「――大丈夫?」とニラが聞いた。
「……思い出しかけた」と、俺は言った。「この林で、母さんを探して泣いてた。……だが、その先が消えてる」
ニラは、俺のそばに来た。手帳を握って。
「無理に、思い出さなくていい」とニラは言った。「あと、二日で村に着く。……そこで、ベテルに聞けばいい。蓋を、自分でこじ開けようとすると、頭が痛むなら。……待って」
俺は頷いた。だが、蓋の向こうの、幼い自分の泣き声が。耳に残って、れなかった。
◇
三日目の朝。最後の峠を登った。
この峠を越えれば、村が見える。俺は知っていた。体が知っていた。一歩ずつ登るごとに、心臓が速くなった。
峠の頂に立った。
眼下に、谷が広がっていた。
そして、その谷の向こうに。丘が見えた。
◇
丘。
なだらかな、緑の丘。その頂に、一本の木が立っていた。葉を落とした、冬支度の木。枝が、空に向かって、細く広がっている。谷を挟んで遠いのに、その木の形だけが、やけにくっきりと、目に焼きついた。
それを、見た瞬間。頭の奥で、何かが鳴った。
――あの丘だ。
理由は分からない。だが、あの丘を俺は知っている。頭ではなく、もっと、深いところで。あの丘に、何か大事なものがある。あるいは、あった。
だが、思い出せない。あの丘で、何があったのか。蓋の、一番、奥。触れると、頭が割れそうに痛んだ。
◇
「――リゲル」とニラが、俺の腕を掴んだ。「顔が真っ青」
俺は、丘から目を逸らした。痛みが少し引いた。
「あの丘を」と、俺は、掠れた声で言った。「知ってる。……何かが、あった。俺の、一番古い記憶の、一番奥に。あの丘がある」
ヴァンネスが、丘を見た。
「……あの丘の麓に村があるのか」
「ああ」と、俺は言った。「村とベテルの小屋。そして、あの丘。……全部繋がってる。俺の、一番古い記憶の中で」
◇
俺は、丘を、もう一度見た。今度は痛みをこらえて。
あの丘で、俺は誰かといた。ベテルと。いや、ベテルだけでは、ない。もう一人。……小さな、誰か。俺と、同じくらいの背丈の。
その姿が、蓋の隙間から覗いた。一瞬だけ。
そして、また蓋が閉じた。頭が、痛んだ。それ以上は思い出せなかった。
だが、確かにいた。あの丘に。俺ともう一人。……誰だ。
背丈が同じだった。俺と、同じくらいの。それが、妙に引っかかった。ベテルなら大人だ。背丈が違う。だが、あの、もう一人は。俺と、並んで立てるほどの、小ささだった。子供が二人。あの丘に。
◇
峠を下り始めた。
村は、もう目の前だった。谷を下れば、村に着く。半日もかからない。
二年の旅の終わりが。いや、終わりではない。もっと、深いものの、始まりが。すぐそこにあった。谷底から、薄く煙が上がっていた。村のかまどの煙だ。人がそこで暮らしている。ベテルも、あの煙の下に、いるのだろうか。
俺は、隊を振り返った。
ガロ。ミレア。コッツ。ヴァンネス。ニラ。リタ。シオ。……全員、いた。俺が、一番古い場所へ帰るのに。全員、ついてきて、くれた。
「――行こう」と、俺は言った。「村へ」
◇
その夜は、村の手前で野営した。
あと半日で着く、その距離で。俺は、あえて足を止めた。心の、支度のためだった。明日、村に入る。ベテルに、会う。そして、問う。
俺を、こう作ったのは、あなたかと。
火のそばで、俺は名前を唱えた。
母。セラ。父。じいさん。ベテル。……ベテル、と唱えて、俺は、初めてその名に迷った。
この名前を、俺は感謝とともに唱えてきた。育ての親として。師として。だが、明日、この名前の意味が変わるかもしれない。
それでも、俺は唱えた。ベテルと。
どんな答えが、返ってきても。この名を唱えた二年を、なかったことにはできないから。
リタが、俺の隣で丘を見ていた。あれ、なに、と聞いた。丘だと俺は答えた。あそこに、大事なものがあった気がすると。何があったのかは、思い出せないが。
リタは、しばらく、丘を見てそれから言った。おもいだせなくても、だいじだったのは、ほんとうでしょ、と。
俺は、その言葉に頷いた。忘れても、大事だったことは消えない。……ニラが、いつか言った言葉だった。それを、リタが俺に返してきた。八つの子の口から、その言葉が出たとき、胸の奥が熱くなった。俺が旅の中で拾い、ニラが書き留め、リタが受け取った言葉。それが、巡って、今俺を支えている。忘れる者たちの間で、言葉だけが、こぼれずに手渡されていた。
丘の上の木が、月に照らされて、遠くに見えていた。明日、あの麓へ行く。




