第138話「思い出す道」
ヴェルデを出て、西へ。
道は、次第に寂しくなった。街の数が減り、宿の間隔が開いた。北の辺境へ近づいている。人の少ない、痩せた土地。俺が生まれた場所は、こういう辺境の奥にあった。
歩くほどに、景色が記憶と重なり始めた。
赤茶けた岩肌。この風の匂い。忘れていたはずの子供の頃の景色が、断片で蘇ってくる。歩くごとに、足の裏が、道の傾きを、先に知っていた。次の曲がりで沢がある、と体が言う。曲がると沢があった。
風が変わった。海の匂いも、街の煙の匂いもない、乾いた土と、枯れ草の匂い。辺境の匂いだった。この匂いを、俺の体は、深いところで覚えていた。息を吸うたびに、胸の奥の、古い扉がかたかたと鳴るようだった。
◇
半月の道は、思い出す道だった。
村に近づくにつれ、薄かった記憶が、少しずつ濃くなった。丘の形。沢の音。ベテルの小屋の、煙の匂い。……忘れていたのではなく、遠ざかっていただけ、のように。近づけば蘇る。
だが、蘇る記憶の中に、妙なものがあった。
いくつかの場面が、繋がらないのだ。ベテルと過ごした日々。狩りを教わった日々。その一つ一つは、思い出せる。だが、その間が抜けている。まるで、飛び飛びの絵のように。覚えている場面と、抜けている場面の、境目が妙にきれいだった。自然に薄れた記憶なら、縁がぼやけるはずだ。だが、俺の記憶の欠けは、刃物で切ったように、縁が鋭かった。
◇
夜、火のそばで、俺は、その違和感をニラに話した。
「――記憶が、飛んでる」と、俺は言った。「ベテルといた頃の記憶。狩りを教わった。名前を唱えることを教わった。……一つ一つは覚えてる。だが、その間がない。ある日と、次のある日の間が、抜けてる」
「普通の、忘却じゃなくて?」とニラが聞いた。
「違う気がする」俺は言った。「普通に忘れるなら、全体が薄くなる。だが、これは、はっきり覚えてる場面と、完全に抜けてる場面が、交互にある。……何かを覚えさせて、何かを忘れさせた。そんな感じだ」
◇
ニラが、手帳を開いた。
「――それ、〈星の間〉の子たちと、似てる」とニラは言った。
「え」
「リタたちは、澱を注がれて、記憶を失った。でも、全部を失ったんじゃない。……教会に都合のいい記憶は残して、都合の悪い記憶を消した。姉のことを忘れさせて、教会への忠誠を残した。……選んで、消したの」
俺は、ニラを見た。
「あなたの、飛んでる記憶も」とニラは続けた。「もし、誰かが選んで消したのだとしたら。……残した場面と消した場面には、意味があるはずよ。何を残して、何を消したか」
◇
俺は、飛んでいる記憶を、辿ってみた。
覚えている場面。ベテルに、狩りを教わった。獣の足跡の読み方。風下から、近づく方法。……狩人としての技。それは、はっきり覚えている。
名前を、唱えることを教わった。忘れないために。夜、寝る前に。……それも、覚えている。
では、消えている場面は。
思い出そうとすると、頭が痛んだ。まるで、そこに蓋がしてあるように。触れると痛い。……ベテルと過ごした、最初の頃。俺が、まだ小さかった頃。その辺りが、ごっそり抜けていた。
◇
「――思い出せない」と、俺は言った。「一番、小さい頃が。ベテルと、どうやって、暮らし始めたのか。俺の親は。……そこが、全部抜けてる」
火が、爆ぜた。
「触れようとすると、頭が痛む」と、俺は言った。「蓋が、してあるみたいに」
ヴァンネスが、口を開いた。
「……坊主。〈星の間〉の子らも、同じことを言うとったな。奪われた記憶に触れようとすると、頭が痛む、と」老兵は、低く言った。「お前の一番古い記憶にも、蓋がしてある。……誰がしたかは、分からん。じゃが、村に着けば」
「ベテルに、聞ける」
「ああ」
◇
俺は、火を見ていた。
蓋の、向こうに、何があるのか。俺の、一番古い記憶。親のこと。ベテルと、暮らし始めた頃のこと。そこに蓋をしたのが、ベテルなら。
なぜ、蓋をしたのか。何を、俺に忘れさせたかったのか。
忘れないことに、命をかけてきた俺が。実は、一番大事な、一番古い記憶を、忘れさせられていた。……その皮肉が、胸に刺さった。
他人の記憶を継いで忘れることを、あれほど恐れてきた。名を唱え、記録を残し、必死にこらえてきた。だが、その俺の、一番奥の記憶は、旅を始めるより前に、もう欠けていた。俺は守るべき城の、一番奥の部屋が、とっくに空だったことに、今になって気づいた。
俺は他人の記憶を、継いで忘れる。だが、俺自身の、一番古い記憶は。継ぐより前に。もう、誰かに消されていた。
◇
リタが、眠る前に、俺の袖を引いた。
「おにいちゃんも、わすれてるの」
「……ああ」と、俺は言った。「お前と、同じだ。一番小さい頃を、忘れてる」
「いっしょだね」
「ああ」
リタは、少し嬉しそうにした。忘れている者同士。仲間ができた、というように。この子にとっては、忘れているのが、当たり前だった。だから、俺も同じだと知って、少しだけ、心細さが減ったのかもしれない。
だが、俺は嬉しくはなかった。
リタは、教会に忘れさせられた。俺は、たぶん、ベテルに忘れさせられた。俺を育てた男に。一番、信じてきた男に。……その手で、俺の一番古い記憶は、消されたのかもしれなかった。
◇
その夜、俺は、名前を唱えた。
母。セラ。父。……母、と唱えて、俺は、その顔を思い出そうとした。
出てこなかった。
名前は、ある。母、という名前は。だが、顔がない。声がない。母との思い出がない。……名前だけが残されて、中身が抜かれている。
半月歩けば、村に着く。そこに、答えがある。
隊は、俺の様子を見ていた。誰も、余計なことは言わなかった。だが、ガロが、いつもより俺の近くで荷を運んだ。ミレアが、夜、俺の分の薬湯を余分に用意した。コッツが、道の先をいつもより遠くまで見に行った。……皆、俺が村で何を知るかを、案じていた。言葉ではなく、そばにいることで、それを示していた。
俺は、目を閉じた。
蓋の向こうを開ける覚悟を。歩きながら、少しずつ固めていった。一番古い部屋に、何が眠っているのか。それを見る勇気が、あと半月の道で、育ってくれることを願いながら。




