第136話「戻る道」
西へ向かう道は、来た道を戻る道でもあった。
東へ東へと旅してきた道を、今は逆に辿る。通った街を、また通る。ハイレ。西の谷。橋番の街。……一度通り過ぎた場所を、もう一度見ることになった。行きは街ごとに長く留まったが、帰りは、村だけを目指して足を速めた。同じ道が、来たときよりずっと短く感じた。
妙な心地がした。
同じ道なのに、来たときとは、違って見えた。二年前の俺は、何も持っていなかった。今は隊がいる。記録がある。拾ってきた、たくさんの名前がある。同じ峠を越えても、風の冷たさが、あのときほど身にしみなかった。隣に、火を囲む顔があるからだ。
道端の石一つ、木の一本にも、来たときの記憶が、うっすらと重なった。ここで雨に降られた。この木陰で、コッツが足を痛めた。二年分の旅が、この道に、薄く染みついている。それを、逆向きに辿っていく。まるで、自分の足跡を、拾い集めながら歩くようだった。
◇
橋番の街を抜けたとき、ミレアが足を止めた。
来がけにこの街で、ミレアは川熱の患者を診た。九割は治る病、一割は死ぬ病。その一割の側に賭けて、西岸に入った。そして賭けに勝った。
「――少し、寄っていっていい?」とミレアが言った。「あのとき診た子が、その後、どうしてるか。……気になる」
隊は、街に寄った。
ミレアが診た子は、元気にしていた。すっかり治って、川辺で遊んでいた。ミレアを見ると、覚えていたのか駆け寄ってきた。ミレアは、その頭を撫でた。
◇
何も、言わなかった。
だが、その顔は、穏やかだった。九日走って、間に合わなかった女が。今度は、間に合った子の、その後を見ていた。治って遊んでいる子を。
記録に残らない、小さなことだった。だが、ミレアには、大事なことだったのだろう。川辺に、しゃがんだミレアの背中は、いつもより小さく見えた。医者は、救えなかった者ばかりを、数える。救えた者を、確かめに戻ることは、めったにない。この子は、その、めったにないことを、今していた。
ニラが、それを書いていた。ミレアが診た子が、治って遊んでいたこと。……こういうのも残したいから、と。
旅は、戻る道でもあった。蒔いたものが、どう育ったかを、確かめる道でも。
戻る道で、俺たちは、いくつもの蒔いた跡を見た。上納の帳面を写した町では、教会の巡回が、来なくなっていた。写しが、方々に回ったらしい。谷の奥の一家の畑では、たぶん今頃、豆が実っている。……行きに蒔いたものが、帰りに芽を出している。旅が、一本の線ではなく、輪のように繋がっていくのが、分かった。
◇
夜、火を囲んで、リタが俺に聞いた。
「おにいちゃんの、むら」
「ああ」
「どんなとこ」
俺は、答えようとして詰まった。
村のことを話そうとすると、うまく言葉にならなかった。小さな村、山の麓の。ベテルの小屋があって。……だが、それ以上が出てこない。俺は、村のことを、あまり覚えていなかった。
妙だった。俺は、忘れないことに命をかけている。なのに、生まれた村のことは、ぼんやりとしていた。旅先の街の名は、いくつも唱えられる。出会った子供の名も。なのに、自分が生まれ育った村の景色だけが、霧の向こうにあるように、遠い。
◇
「……よく、覚えてないんだ」と、俺は、正直に言った。「小さい頃のことは。……ベテルの小屋と山と丘。それくらいしか」
「わすれたの?」とリタが聞いた。
「いや」俺は、言いよどんだ。「忘れた、というより。……最初から、あまり覚えてない。子供の頃の記憶が、薄い」
リタが、俺を見た。
この子は、生まれた場所の記憶を、奪われた子だ。〈星の間〉で。だから、リタには生まれた場所がない。
その子が、俺の薄い記憶の話を聞いていた。
「リタと、いっしょだね」とリタが言った。「リタも、うまれたところ、おぼえてない」
◇
俺は、はっとした。
リタは、〈星の間〉で記憶を奪われた。澱を注がれて。姉のリィナの記憶ごと、生まれた場所を失った。
だが、俺は。
俺は、誰にも記憶を奪われていない、はずだ。ただ、子供の頃の記憶が、薄いだけ。……そう、思っていた。
だが、リタと一緒だ、と言われて。ひやりとした。
俺の、薄い記憶も。誰かに、奪われたものではないのか。……子供の頃の記憶が、薄いのは。ベテルが、何かをしたからではないのか。
◇
その考えは、一度浮かぶと消えなかった。
俺は空の器だ。生まれつき、星の力を持たない器。だが、本当に、生まれつきか。……もし、誰かが、俺の器を空にしたのだとしたら。子供の頃に。俺の中にあった、何かを抜き取って。
ベテルが。
火を見ながら、俺は考えていた。
村に帰れば分かる。ベテルに問えば。……だが、その答えが怖かった。俺の、こらえる性質だけでなく。俺の、空の器そのものも。ベテルが、作ったものだとしたら。
俺は、どこまでが、俺なのか。
◇
「――リゲル」と、ニラが声をかけた。
俺の、顔色を見たのだろう。
「考えすぎないで」とニラは言った。「まだ、何も分かってない。……村に着くまで、まだ時間がある。今、答えの出ないことを、考え続けると潰れる」
「……ああ」
「一つずつだ」とヴァンネスが言った。「先を数えるな。狩りと同じじゃろ。目の前の道を、一歩ずつ行く。村は、その、一歩の先にいつか着く」
俺は頷いた。
だが、火を見ながら、思っていた。
リタと俺は、一緒かもしれない。二人とも、生まれた場所を覚えていない。二人とも、何かを奪われたのかもしれない。
その、奪った者に。俺は、これから会いに行く。
火の向こうで、リタが、もう眠りかけていた。この子も、奪われた側だ。俺と、同じかもしれない側。その寝顔を見ていると、胸の奥が、静かにざわついた。
◇
その夜、俺は名前を唱えた。
母。セラ。父。……唱えながら、思った。この、母という人を、俺はどれだけ覚えているだろう。顔は。声は。……ぼんやりとしていた。名前は、唱えられる。だが、その中身は、薄い。
まるで、名前だけが残されて。中身が抜かれたように。
俺は、唱えるのを止めた。
そして、思い直して、もう一度唱えた。
薄くても。中身が抜かれていても。この名前を唱えることが、今の俺にできる、ただ一つのことだった。
母。セラ。父。……ユナ。トキ。
覚えている限りの名前を。抜かれた中身の周りに残った、名前だけでも。




