第134話「幕間・変わっていく人」
ハイレの街を出て、六日。
私は、最近、リゲルのことをよく書いている。ペンの先が、いつもより迷う。事件を書くときは、迷わない。だが、この人の心を書こうとすると、言葉がなかなか出てこない。それでも、書きたいと思う。
街の記録ではなく。事件の記録でもなく。リゲル自身の、変化を。……この二年、私はリゲルの外側ばかりを書いてきた。何をしたか。どう戦ったか。だが、最近は、内側を書きたくなる。この人が、変わっていくのが見えるから。
◇
検定士に会ってから。リゲルは変わった。
いや、正しくない。変わったのではなく、変わり始めた。ゆっくりと。自分でも、気づかないくらい、ゆっくりと。
前は、リゲルはまっすぐだった。継がない。忘れない。名前を唱える。その一本の道を、迷わず歩いていた。……でも、検定士が言った。こらえる性質すら、ベテルに注がれたものかもしれない、と。それから、リゲルの中に、小さな揺らぎが生まれた。
私は、それを書いている。揺らぎを。
事件は書きやすい。誰が何をした、と書けばいい。でも、人の心の揺らぎは、書きにくい。見えないからだ。リゲルが、笑っていても、その奥で何かが軋んでいることがある。それを、どう書けばいいのか。私は、二年、事件ばかり書いてきた。人の心の書き方は、まだ身についていない。
でも、書かなければと思う。リゲルの、この揺らぎは、事件よりも大事なものだから。
◇
ガロさんはリゲルを支えた。器は借りもの、中身は自分のもの、と。……いい言葉だった。私も、手帳に書いた。リゲルは、その言葉で一度は立ち直った。
でも、私は知っている。
立ち直ったのは、表側だけ。奥の方に、小さな問いが残っている。俺は、なぜこらえているのか。俺の意志か。作られた性質か。……その問いは消えていない。ガロさんの言葉で、蓋をしただけ。
蓋の下で、問いはまだ生きている。リゲルが、火のそばで、ふと黙り込むことがある。ほんの、数呼吸のあいだ。誰も、気づかないくらいの。でも、私は、そのたびに気づく。蓋の下の問いが、また、頭をもたげたのだと。
二年前を思い出す。私は、リゲルの忘れた記憶を、毎晩、埋め直していた。埋め直しと、リゲルはそれを呼んだ。忘れた場所に、私が言葉で土をかける。あのころのリゲルは、空っぽを埋められる人だった。私が土をかければ、受け取ってくれた。
でも、今のリゲルのこの問いは。私が、土をかけられない。埋め直せない。……自分の心が、自分のものか、という問いは、外から埋められるものではないからだ。この土は、リゲル自身がかけるしかない。
◇
そして、私は、もう一つ気づいたことがある。
リゲルが、最近「器」の話をよくするようになった。
ハイレの街で、低く出た子に言っていた。俺の器は、大きすぎて困る、と。小さい器の方がこぼれない、と。……前のリゲルは、自分の器を、そんなふうには語らなかった。空の器を呪いのように、思っていた。
でも、今は違う。
自分の器を、他人の器と比べて語る。トウルの小さい器と、自分の大きい器を。……リゲルは、自分の器を外から見始めている。
◇
それが、なぜ気になるのか。私にもうまく言えない。
ただ、外から自分の器を見るというのは。……その器に、何が入っているかを確かめようとすること、かもしれない。器の中身を。誰が注いだのかを。
検定士が言った。あなたを育てた者に、会う日が来ると。
リゲルは、その日に向かって歩いている。自分でも、気づかないまま。器の中身を、確かめるために。
私は、それが少し怖い。
ペンを持つ手が止まる。この先に、何が待っているのか。リゲルが、確かめようとしているものが、彼を救うのか、壊すのか。私には、まだ分からない。
◇
なぜ、怖いのか。
リゲルが、器の中身を確かめて。もし、全部がベテルに注がれたものだと分かったら。……リゲルは、どうなるのだろう。
自分の大事なものが、全部、他人に仕込まれたものだと知ったら。人は立っていられるのだろうか。
ガロさんは言った。気持ちがどこから来たかは関係ない、その気持ちで何をするかが自分のものだ、と。……正しい。でも、それは頭で分かることだ。心がそれを受け止められるかは、別だ。
リゲルの心が、それを受け止められるように。私は、何ができるだろう。
◇
私に、できることは、一つしかない。書くことだ。
リゲルが、この二年で拾ってきたものを、書く。ガロさんの椀。シオの手。ユナの豆。トウルの、覚えた、という言葉。……全部、ベテルが知らないもの。ベテルが注いでいないもの。リゲルが、自分で旅の中で拾ってきたもの。
もし、リゲルが、いつか、器の中身が全部借りものだと、絶望したとき。
私が、この記録を見せる。
見て。これは借りものじゃない。これは、あなたが、拾ったもの。器はベテルのものでも、この中身は、あなたのもの。……そう言うために。
◇
だから、私は、今書いている。
リゲルの変化を。揺らぎを。そして、リゲルが旅の中で拾ってきたものを。その日が、来たときのために。
リゲルが、自分の器の中身を確かめて。もし、崩れそうになったとき。私の手帳が、支えになれるように。
記録は、覚えるためのもの。突きつけるためのもの。律するためのもの。見えないものを、見せるためのもの。……そして。
崩れそうな人を、支えるためのもの。
手帳の役目が、また一つ増えた。
◇
その夜、リゲルは名前を唱えていた。
いつものように。母。セラ。父。……最後に、ユナ、トキ、と付け加えて。
私は、その声を聞いていた。
迷いは、あるだろう。この名前を唱える理由が、自分のものか、借りものか。……でも、リゲルは、唱えている。迷いながら。それでも、唱えている。
それで、いいと私は思った。
迷いながらでも、唱える。それが、リゲルの答えだ。まだ、言葉になっていない。でも、体はもう答えている。
頭では迷っている。俺の意志か借りものか、と。だが、口は、名前を唱えることを、やめない。頭より先に、体が、選んでいる。
私は、それを書いた。
リゲルはそれでも、迷いながら唱えていた。——この夜のことをいつか、彼が忘れても。私が、覚えている。




