第133話「小さい器の子」
低く出た子の名は、トウルといった。
翌日も、俺はあの路地に行った。トウルは、同じ石段に座っていた。今日は、盤の列には並んでいなかった。母親が諦めたのか、それとも、トウル自身が行きたがらなかったのか。石段の縁に、小石がいくつか並べてあった。大きさの順か、色の順か。トウルなりの、決まりで並べたらしかった。子供は、それを指で、一つずつ確かめていた。
「――また、来た」とトウルは言った。驚いていなかった。
「ああ。……お前に、見せたいものがある」
俺は、ニラを連れてきていた。ニラが手帳を開いた。
「これはね」とニラは、トウルの隣にしゃがんだ。「私が、旅で書いてきた記録。……盤に、低く出た子たちの、その後よ」
◇
昨夜、ニラは手帳をめくり直した。
二年分の記録の中から、低く出た子の話を探した。多くはなかった。ニラは、高く出て連れていかれた子ばかりを、追ってきたからだ。だが、いくつかあった。
メルクの養育院で、低く出て記録係トゥーレの手伝いをしていた子。カルナの塩田で、低く出て、それでも、仲間をかばい続けた子。……盤に低く出て、街に恥じられて。それでも生きて、誰かの役に立っていた子。
ニラは、それをトウルに読んで聞かせた。
◇
「――このこ」とニラは、一つの記録を指した。「メルクっていう街の子。盤に、すごく低く出たの。だから、街の人に馬鹿にされてた。でも、この子は、養育院で小さい子たちの世話をしてた。字が読めない子に、字を教えてた」
「じが、よめたの?」
「うん。低く出た子でも、字は読めるの。盤は字が読めるかどうかは測れないから」ニラは言った。「盤が測れるのは、星の力の器の大きさだけ。字が読めるか、優しいか、我慢強いか。……そういうのは、測れない。だから、低く出た子でも、字が読めるし、優しいし、我慢強い」
トウルは、その記録を見ていた。字は、読めないようだった。だが、ニラの声を、聞いていた。痩せた肩が、少しずつ、こちらへ傾いていく。話を、もっと聞きたい、という体だった。町の大人からは、聞いたことのない話だったのだろう。低く出た子が、それでも誰かの役に立った、という話は。
◇
「トウルは」とニラは聞いた。「何が、得意?」
トウルは、考え込んだ。得意なものと言われて、戸惑っていた。この子は、たぶん、得意なものを聞かれたことが、なかった。低く出た、としか、言われてこなかった。
「……いし」と、ぽつりと言った。
「石?」
「いしの、なまえ。ぜんぶ、しってる。これは、せきえい。これは、うんも。かわらでひろって、おぼえた」トウルは、足元の小石を拾った。「これは、はんれいがん。おもいやつ」
ニラの手が、動いた。
手帳に、書きつけた。トウル。石の名前を、全部、知っている子。盤には、低く出た。だが、石の名を、覚えている。
◇
「――トウル」と、俺は言った。「銀山の街に生まれて、石の名前を全部覚えてるってのは、すごいことだ」
「すごい?」
「ああ。この街は銀山で食ってる。銀を掘る。掘るには、どの石に銀が入ってるかを、見分けなきゃならない。……石の名を全部知ってる子は、いつか、銀山で一番頼りにされる」
トウルの、目が開いた。
「盤は、それを測れない」と、俺は続けた。「盤は、お前の器が小さいとしか言わない。だが、お前が石を見分けられることは、測れない。……盤に測れないところに、お前の値打ちがある」
◇
トウルは、小石を握っていた。
石の名を、覚えた子。盤には、四回、低く出た子。この街の基準では、恥。だが、この子の中には、盤が測れない確かなものが、あった。
「かあさんに」とトウルは言った。「いしの、なまえ、しってても。かあさんは、うれしくない。たかく、でないと」
「母さんには」と、俺は言った。「今は、分からない。……だが、いつか、お前が銀山で頼りにされる大人になったら。母さんは、気づく。盤の目盛りより、石の名を覚えてたことの方が、お前を生かしたって」
「……いつか」
「ああ。いつかだ。……それまで、石の名を覚えていろ。忘れるな。盤が何と言おうと、お前の覚えたものは、お前のものだ」
◇
忘れるな。
自分で言って、俺は少し可笑しくなった。忘れることばかりの、俺が。忘れるな、と子供に言っている。
だが、それは本当のことだった。
俺は、継げば忘れる。だから、継がない。忘れないために力を。
トウルは、逆だ。盤に、低く出た。器が小さい。だから、たくさんは注げない。注げないから、こぼれない。……小さい器は、覚えたものを、こぼさない。
大きい器の俺が、忘れ続け。小さい器のトウルが、覚え続ける。
器の大小は、値打ちの大小ではなかった。ただの性質の違いだった。
◇
その夜、ニラは、手帳に書き足していた。
トウルのことを。石の名を、全部覚えている、小さい器の子のことを。
「――この記録は」とニラは言った。「すぐには、役に立たない。トウルの母さんは、まだ、盤を信じてる。……でも、いつか。トウルが、大人になって、銀山で頼りにされたとき。この記録が、あれば。低く出た子でも、こう生きられる、っていう証しになる」
「時間が、かかるな」
「かかる」ニラは、頷いた。「でも、記録は待てる。人より、長く。……トウルが大人になるまで、私の手帳は、この記録を抱えていられる」
俺は、その手帳を見ていた。
高く出た子の末路と、低く出た子の、これからと。篩いの、両側の記録を、抱えた手帳を。
◇
この街を発つ前に、俺は、もう一度トウルに会いに行った。
トウルは、川原で石を拾っていた。楽しそうに。名を、確かめながら。川の水が、石を洗って、光らせていた。トウルは、その中から、一つを拾い上げ、日にかざした。石の名を、口の中で、小さく唱えていた。名前を、こぼさないように。
「――発つのか」とトウルは聞いた。
「ああ」
「なまえ、おぼえた」トウルは言った。「リゲル。……いしみたいに、おぼえた。わすれない」
石みたいに、覚えた。
石の名を、こぼさない子が。俺の名を、覚えると言った。
忘れることばかりの、俺の名を。小さい器の子が、忘れないと言った。
それは、俺がこの旅でもらった、一番確かな約束かもしれなかった。




