第130話「発つ」
ガロの吊り紐が外れたのは、谷に来て十二日目だった。
ミレアが、慎重に、紐を解いた。ガロが、恐る恐る右腕を動かした。肘が曲がる。指が握れる。だが、力は、戻っていなかった。
「――握力は、七割ってとこね」とミレアが言った。「重い盾を、前みたいには構えられない。でも、日常には困らない。玉杓子なら握れる」
「上等だ」とガロは笑った。「七割残った。三割減った。……減った三割は、シオの両手が埋めてくれる」
シオが、それを聞いて、少し得意げな顔をした。
◇
発つ前の日、俺は、谷の奥へ最後に行った。
男の畑では、蒔いた豆が、芽を出そうとしていた。北向きの斜面に、新しい畝が切られていた。俺が伝えた、宿の主の知恵の通りに。石を畝の縁に寄せて、水はけをよくする作り方。痩せた土から、細い緑が、いくつも顔を出している。小さな頼りない芽だった。だが、確かに生きていた。斜面を渡る風に、その芽先が、かすかに揺れた。
男は、その芽を見ていた。
「……芽が、出た」と、男は言った。「十年、この谷で、まともに育ったことがなかった。……出た」
「育つといいな」
「ああ」男は、頷いた。それから言った。「あんたら、明日発つのか」
「発つ」
「そうか」
◇
男は、しばらく黙っていた。それから言いにくそうに口を開いた。
「……あんたに言われたこと考えた。俺が、上になったら、今度は俺が下を作るのか、って」
「ああ」
「たぶん作った」男は正直に言った。「あんたが来なかったら。俺は、いつか町を見返して、上になって。……そして、新しいよそ者を探して、下に置いた。町の連中と同じことをした」
男は芽を見ていた。
「あんたが、それを塞いだ。……礼を言う。恨みの行き場を塞がれるのは、苦しい。だが、塞がれてよかった。俺の子に、篩う親を見せずに済む」
◇
帰り道、ユナがまた送りに来た。
手に何か握っていた。小さな布の包み。
「これ」とユナは、俺に差し出した。「まめ。さいしょに、とれたやつ」
「もらっていいのか」
「うん。リゲルが、たねをくれたから。……さいしょのを、リゲルに」
俺は、その包みを受け取った。中に豆、数粒。まだ、青い若い豆だった。掌の上で、豆は思ったより硬く、しっかりしていた。青い皮の下に、これから育つ命が詰まっている。痩せた畑で、それでも実った、最初の一粒だった。
「ありがとう」と、俺は言った。「大事にする」
「たべないの?」
「食べる。だが、その前に、少し見てる。……お前がくれたって、忘れないように」
◇
その夜、俺は名前を唱えた。
母。セラ。父。じいさん。ベテル。ガロ。ミレア。コッツ。ヴァンネス。ドッズ。ヘズラ。メイセン。ロコ。ジフ。三十一人。ミナ。トト。サラ。四十一の名前。名前の分からない六人。マナ。エラ。ヨナ。リノ。リタ。ニラ。シオ。
そして、少し迷ってから付け加えた。
ユナ。トキ。
この谷で出会った、姉と弟。まだ、隊の一員ではない。もう会わないかもしれない。だが、覚えておきたかった。覚えた、と言ってくれた子を、俺も覚えておきたかった。
名前が、二つ増えた。
継がずに、増えた名前だった。誰かを失って空いた場所ではなく。新しく、出会って増えた名前。
◇
発つ朝、隊は谷を下った。
西の谷の町は、静かなままだった。篩いは残っていた。俺たちが二十日いても、町の格付けは変わらなかった。宿の主は、今日も誰かを篩い、誰かに篩われて生きていく。
だが、谷の奥の畑では、豆が育ち始めている。
それだけだった。俺が、この町でできたのは、それだけ。篩いを壊すことはできなかった。ただ、その一番下にいる一家が、飢えずに済む小さな隙間を作った。
「――なあ、リゲル」荷馬車の上で、ヴァンネスが言った。「この二年で、いくつの町を回った」
「……数えてない」
「わしは、数えとる。三十七じゃ」老兵は言った。「三十七の町を回って。止められた篩いは、いくつじゃ」
◇
俺は、答えられなかった。
白い馬車を追い返した町が、一つ。上納の帳面を写した町が、一つ。谷の奥に豆を届けた町が、一つ。……三十七のうち、はっきり何かを変えられたのは、数えるほどだった。
「少ない、と思うか」とヴァンネスが聞いた。
「少ない」と、俺は答えた。「三十七回って、三つか四つだ」
「じゃがな」ヴァンネスは言った。「その三つか四つの町の、子供らは篩われずに済んだ。数の問題じゃ、ない。……お前が通らなかったら、その子らは篩われとった。通ったから、篩われずに済んだ。それは、数える意味の、あることじゃ」
老兵は、遠くの山並みを見た。
「二百の町を、全部は救えん。じゃが、通った町のいくつかは、変えられる。……それで、十分じゃないか。全部を救おうとする者は、たいてい一つも救えん。一つずつ救う者だけが、いくつかを救える」
「じいさんも、そう言ってた」と、俺は言った。「一度に大きな獣を狙うな、と。狙うのはいつも一頭。目の前の一頭だけ、と」
「狩人の教えじゃな」ヴァンネスは笑った。「旅も狩りも同じじゃ。目の前の一つを片付ける。その積み重ねしか、ない。……先を数えすぎると、足が止まる」
◇
荷馬車が、谷を抜けた。
西の谷の町が、後ろに遠ざかっていく。
俺は、ユナがくれた豆の包みを、懐に入れていた。青い豆が、数粒。この旅で俺が受け取ったもの。奪ったのではなく、もらったもの。懐の中で、その包みが胸のあたりに小さく当たる。歩くたびに、それを感じた。忘れても、この重みだけは、体が覚えているかもしれない。
忘れることばかりの、旅だった。継げば忘れる。だから継がない。失わないために、力を捨て続ける旅。
だが、この二年で増えたものも、あった。
ニラ。シオ。ユナ。トキ。……出会って増えた名前。もらった豆。書き溜めた記録。
旅は失うだけでは、なかった。継がずに増やすこともできた。
俺は、そのことを、この谷で教わった気がした。八つの子と、痩せた畑と青い豆に。
次の町の名は、ヴァンネスの地図にも、載っていない。西へ、二日の道のり。それだけが、分かっていた。
だが、行けば、また何かに出会う。奪わずに増やせる何かに。




