第129話「名前を聞く」
翌日も、俺は谷の奥へ行った。
男は畑にいた。昨日と同じ場所で、鍬を握って。だが、昨日ほどの警戒はなかった。俺が来ると、手を止めてこちらを見た。それだけだった。
上の女の子が、畝の間で雑草を抜いていた。細い指が痩せた土から、根ごと草をつまみ上げる。慣れた手つきだった。この子は遊ぶより先に、畑仕事を覚えたのだろう。
俺は、その子のそばにしゃがんだ。
「――名前は」と、聞いた。
女の子が、俺を見た。それから父親を見た。父親が小さく頷いた。答えていいという合図だった。
「……ユナ」
「ユナ」と、俺は繰り返した。「いい名前だ」
◇
ユナは、少し驚いた顔をした。
いい名前だ、と言われたのが、初めてだったのかもしれない。町の子は、この子の名を呼ばない。呼ぶとしたら、蔑む時だけだ。よそ者。谷の奥の子。……名前を、名前として呼ばれること自体が、この子には珍しかった。
「弟は」
「……トキ」ユナは、弟の方を見た。小屋の前で、石を並べて遊んでいる、五つの子。「トキは、まだ、ちいさいから。わたしが、まもるの」
「そうか」
「うん。……いしをなげられたら、わたしがまえにでる。トキには、あてさせない」
俺は、その言葉を聞いていた。
五つの弟を守るために、石の前に立つ八つの姉。リタが、シオの手を引いたように。この子も、誰かを守ることを知っていた。
◇
「ユナは」と、俺は聞いた。「町の子を恨んでるか」
ユナは、少し考えた。子供の正直さで。
「……こわい」と、言った。「うらんでる、より、こわい。いしを、なげてくるから。でも」
「でも?」
「でも、あのこたちも、だれかに、なにかされてるのかな、っておもう」ユナは言った。「うちにいしをなげるこ、いえでおこられてるの、みたことある。おとうさんに、ぶたれてた。……だから、うちにいしなげるのかな、って」
俺は、言葉を失った。
八つの子が、自分に石を投げる子の、その背後を見ていた。石を投げる子も家で殴られている。だから、より下のよそ者に、石を投げる。ユナは、その連鎖を恨みではなく、怖さと憐れみの混じった目で見ていた。
◇
この子は、と俺は思った。この子は、篩いの仕組みを、恨みでなく理解している。
大人が、二十年かけて気づかなかったことを。宿の主も、下層の男も、恨みの中にいた。だが、この八つの子は、恨みの一つ外に立っていた。石を投げる子の、その痛みまで見ていた。
「――ユナ」と、俺は言った。「あんたは賢い子だ」
「かしこい?」
「ああ。あんたは、石を投げる子が、なぜ投げるかを考えた。……それは、大人でも、なかなかできないことだ」
ユナは、雑草を握ったまま俺を見ていた。
父親が、鍬を止めてこちらを見ていた。娘が褒められるのを聞いていた。その顔に、昨日はなかった何かが、あった。
◇
その夜、俺は宿でニラに話した。ユナのことを。石を投げる子の、背後を見る八つの子のことを。
「――記録に残したい」と、俺は言った。「ユナのことを。この子が言ったことを。石を投げる子も、殴られてる、って気づいたことを」
「もう、書いた」ニラは、手帳を見せた。「あなたが話してる間に。……この子の言葉は、残す価値がある」
「なぜ」
「篩いを止める鍵が、この子の中にあるから」ニラは言った。「大人は、恨みで篩いを続ける。下に置かれた恨みを、さらに下を作ることで、晴らそうとする。……でも、この子は恨まない。石を投げる子の、痛みまで見る。恨まなければ、下を作る必要もない。篩いはそこで止まる」
◇
翌朝、俺は宿の主に頼んだ。
「――谷の奥の一家に、豆の種を売ってやってくれ。それと、この谷で一番いい畑の作り方を、教えてやってくれ」
宿の主は、渋った。
「……町の連中に、知られたら。わしが下に落とされる」
「知られない方法がある」と、俺は言った。「俺が買う。俺が、あんたから種を買って、俺があの一家に渡す。あんたは、俺という旅人に物を売っただけだ。……あの一家に、直接売ったわけじゃない」
宿の主は俺を見た。
「……それなら」
「畑の作り方も、俺があんたから聞く。俺が、あの男に教える。あんたは、旅人に世間話をした。それだけだ」
宿の主の顔に、安堵と後ろめたさが混じった。
「……ずるい、やり方じゃな」
「ああ」と、俺は言った。「だが、これで豆は育つ」
◇
ロウデの町を思い出した。
東岸の医者に、"自分が確かめた体"を作らせた。面子を潰さずに、橋を開けた。正しくない方法で正しい結果を出した。
今度も同じだった。宿の主の面子を潰さずに。町の篩いを、正面から壊さずに。ただ、谷の奥の一家に、豆の種と畑の知恵を届ける。
篩いを壊すことはできない。二十年、人の心に根を張った篩いを、旅人一人が壊せるものではない。
だが、篩いの一番下にいる一家に、豆を育てさせることは、できる。篩いは残る。だが、その中で一家が飢えずに済む。
◇
その日の夕、俺は種を持って、谷の奥へ行った。
男に種を渡した。宿の主から聞いた畑の作り方も、伝えた。石の多い土に、どう畝を作るか。北向きの斜面で、日をどう活かすか。
男は、種を受け取った。しばらく掌の上でそれを見ていた。
「……なぜ、ここまでする」
「あんたの娘が、賢いからだ」と、俺は言った。「ユナは、恨まずに篩いの外に立ってる。……あの子が飢えるのは、もったいない。あの子には、生きて大人になってほしい。恨まない大人に」
男は種を握った。それから、初めて俺に頭を下げた。
◇
帰り道、ユナが畑の入り口まで送りに来た。
「おじさん」
「なんだ」
「また、くる?」
「ああ。この谷にいる間は、来る。……ガロの腕が、治るまでだ。あと少しだ」
「そう」ユナは、少し寂しそうにした。それから、言った。「なまえ、おしえて」
俺は、少し驚いた。名前を聞かれたのが、久しぶりだった。
「リゲルだ」
「リゲル」ユナは、繰り返した。俺が、彼女の名を繰り返したように。「おぼえた」
覚えた、と、この子は言った。
俺は、その言葉を、しばらく味わっていた。忘れることばかりの、俺の旅で。覚えた、と言ってくれる子が、いた。
谷を出る道すがら、その二文字が、胸の奥で小さく灯っていた。俺は、明日にはこの子の顔を忘れるかもしれない。だが、この子は俺を覚えると言った。忘れる者と覚える者。旅の先々で、俺はいつも覚えてくれる誰かに、支えられていた。




