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継承者は忘れていく ~才無しと蔑まれた狩人は、敵を狩るたび最強に近づき、大切な記憶をひとつずつ失っていく~  作者: あおあお


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第127話「選ぶ側」


西の谷の町に留まったのは、ガロの腕のためだった。


ミレアが、あと十日と言った吊り紐は、まだ外れない。深い傷だった。焦って動かせば、握力が二度と戻らない。だから、隊は、この静かな谷の町で待つことにした。俺の動揺も、ここで少し癒えた。急がない旅だと決めていた。


その十日で、俺はこの町の妙なことに気づいた。この町にも、昔盤があったらしい。


谷の斜面に、家々が段になって張りついている。上の段ほど、家が大きく造りがいい。下の段へ行くほど、屋根が低く、壁が薄い。土地の高さがそのまま、人の高さのように見えた。歩いているうちに、それがただの地形ではないと気づいた。


◇


宿の主が、話してくれた。


二十年前まで、この谷にも教会の巡回が来ていた。白い馬車が、年に一度。子供を測って連れていった。だが、あるとき、来なくなった。谷が貧しくなって、器の出る子が減ったからだと、宿の主は言った。


「――それで、みんな、ほっとしたのか」と、俺は聞いた。


「いや」宿の主は、首を振った。「困った。……巡回が来なくなって、この町は、格付けの仕方を失った」


「格付け?」


「誰が偉くて、誰が下か。……盤が決めてくれとった。盤が高く出た家は、上。低い家は、下。二十年、それで回っとった。盤が来なくなって、その仕組みが消えた」


◇


妙な話だった。


盤が消えれば、格付けから自由になる。カルナでは、盤が、子供を篩っていた。低く出た子は、塩田へ。それが消えたなら、いいことのはずだ。


だが、宿の主の顔は困っていた。


「盤がなくなって、この町は、自分たちで格付けを始めた」宿の主は、声を低くした。「盤の代わりに。……昔、盤で高く出た家の子孫が、今、町の上に立っとる。低く出た家の子孫が、下じゃ。盤は、もうないのに。二十年前の目盛りが、今もこの町を縛っとる」


「……盤がないのに、格付けだけ残ったのか」


「そうじゃ。しかも、性質が悪い」


◇


宿の主は、続けた。


昔、盤で低く出た家々。その子孫たちが、今、町の下層で暮らしている。彼らは屈辱を覚えている。親が、祖父が、盤で低く出て下に置かれた、その屈辱を。


その屈辱を彼らはどうしたか。消そうとは、しなかった。代わりに、自分より下を作った。


「谷の一番奥に、新しく来た、よそ者の一家がおる」宿の主は言った。「十年前に流れてきた。その一家を、下層の連中が下に置いた。……自分らが二十年、置かれてきたその場所に。よそ者を突き落とした」


「盤もないのに」


「盤の代わりが要るんじゃ」宿の主は言った。「下に置かれた者は、自分より下を作りたがる。そうしないと、自分が一番下だからな。……篩われた者が、今度は篩う側に回る。盤がなくても、篩いは続くんじゃ」


◇


俺は、その話を聞いていた。


メルクは、教会に篩われる町だった。カルナは、商人が篩う町だった。だがこの町は違った。篩われた者が、篩う側に回っていた。


盤は、二十年前に消えた。だが、盤が植えつけた「上と下」という考えは消えなかった。人々の中に、残った。そして、下に置かれた者が、その考えを使って、新しい下を作った。


盤は道具にすぎなかった。本当の篩いは、人の心の中にあった。


教会がいなくなっても。盤が消えても。人は篩うことをやめなかった。篩われた痛みを、忘れるためではなく、その痛みを、誰かに味わわせるために。


◇


「――その、よそ者の一家は」と、俺は聞いた。「今、どうしてる」


「谷の奥で、畑をやっとる。誰も口をきかん。物を売ってもやらん。子供が二人おるが、町の子と遊べん」宿の主は、目を伏せた。「わしも、宿を貸してやれん。貸したら、町の連中がわしを下に落とす。……すまん、とは思っとる。じゃが、わしにも暮らしがある」


「あんたも、篩う側か」


「そうじゃ」宿の主は認めた。「わしも篩っとる。篩わんと、篩われるからな。……この町は、そういう町じゃ。誰も悪くない。誰も抜けられん」


◇


誰も悪くない。誰も抜けられない。


ロウデの町を思い出した。悪人が一人もいないのに、人が死んだ町。あそこは、雨が少なかったからだった。水が、汚れを薄めきれなくなった。


この町も似ていた。悪人はいない。宿の主も、下層の人々も、それぞれ暮らしを守っているだけだ。だが、その結果、よそ者の一家が、谷の奥で孤立している。


だが、ロウデとは違うところがあった。


ロウデの汚れは雨という、自然のものだった。この町の篩いは、盤という教会の道具が植えつけたものだった。二十年前に消えた道具が、今も、人の心の中で動き続けている。


盤は、こういうものを残していく。大陸中に置かれた盤が消えたあとも、こうやって篩う心を残していくとしたら。教会の巡回を止めるだけでは、足りないのかもしれない。


◇


その夜、俺はニラにその話をした。


ニラは、手帳を開いて聞いていた。書きながら。


「――記録に、残らないものがある」と、俺は言った。「盤は、記録に残る。上納の帳面も残る。だが、この町の篩いは、どこにも書かれてない。人の心の中にあるだけだ。……あんたの手帳でも、これは書けないんじゃないか」


「書ける」ニラは、言った。


「どうやって」


「今、あなたが話してくれた。それを書く」ニラは、ペンを動かした。「盤が消えても、篩いは残る。篩われた者が、篩う側に回る。……これは、盤の帳面には載らない。でも、あなたが見て、私が書けば記録になる」


ニラは、顔を上げた。


「見えないものを見た人が、話してそれを書く。……それが、私の仕事なのかもしれない。帳面に載らないものを、載せること」


◇


俺は、その手帳を見ていた。


五十三人の名前。マナ。上納の記録。リゲルとの約束。そして今、盤の消えた町に残る見えない篩い。


ニラの手帳は、教会が書かないものを、書いてきた。連れていかれた子の、その先を。今度は盤が消えたあとに残るものを。


記録は覚えるためのもの。突きつけるためのもの。自分を律するためのもの。そして――見えないものを、見えるようにするためのもの。


手帳の役目が、また一つ増えた。


明日、俺は谷の奥のよそ者の一家に、会いに行こうと思った。篩われた側が篩う側に回る、その連鎖の一番下にいる、一家に。


宿の窓から、谷の一番奥が見えた。灯りが一つだけ、他の家から離れて、ぽつんと灯っている。あの灯りの下に、口をきいてもらえない一家がいる。俺はその小さな光をしばらく見ていた。

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