第126話「借りものの心」
西の谷の町は、静かな町だった。
顔役の老人が教えてくれた宿は、谷の斜面に、へばりつくように建っていた。宿の主は、老人の名を出すと、部屋を二つ、安く貸してくれた。盤のない町だった。俺も、久しぶりに屋根の下で眠れる。谷底を細い川が流れていた。その水音が、一日じゅう、町の底に響いている。人の声は少なく、代わりに、水と風の音が、町の時間を刻んでいた。
だが、俺は眠れなかった。
検定士の言葉が、離れなかった。こらえるという性質を、誰かがあなたに注いだのだとしたら。それを注いだ者こそ、あなたを一番深く所有している。
夜、宿の天井を見上げていると、その言葉が暗がりの中で、何度も形を変えて戻ってきた。谷を渡る風の音が、やけに大きく聞こえた。
◇
三日、俺は口数が減った。
隊は、それに気づいていた。だが、誰も詮索しなかった。ガロは、いつも通り鍋を煮た。ミレアは、シオの手を温めた。コッツは、町の噂を拾ってきた。ヴァンネスは、地図を広げていた。日常が俺の周りで回っていた。
その日常が、俺には遠く見えた。
この日常を大事だと思う気持ちも。ガロの鍋を旨いと思う気持ちも。シオの手が開くのを嬉しいと思う気持ちも。全部、ベテルに注がれたものかもしれない。そう思うと、何を見ても、自分の心か、借りものの心か、分からなくなった。
飯の味が、遠かった。三日前まで旨かったはずの塩汁が、口の中で、ただの塩の味になっていた。味が変わったのではない。俺の側の、味わう心が揺らいでいた。
◇
四日目の朝、ガロが、俺の隣に座った。
左手に、椀を二つ持って。一つを俺に寄越した。
「――何が、あった」と、ガロは言った。「峠で、あの検定士に何を言われた」
俺は、椀を受け取った。湯気が立っていた。
「……俺が、こらえてるのは」と、俺は言った。「俺の意志じゃないかもしれない、と言われた。継がずにいられるのも。名前を唱えるのも。全部、ベテルに仕込まれたものかもしれない、と」
ガロは、椀をすすった。
「それで?」
「それで、分からなくなった。俺が、大事だと思ってるものが、本当に俺のものなのか」
◇
ガロは、しばらく黙っていた。それから、言った。
「俺はな、四年前、娘の薬代のために隊を売った」
知っている話だった。だが、ガロは続けた。
「あのとき、俺は、娘を大事だと思ってた。だから、隊を売った。……その『娘を大事に思う気持ち』は、どこから来た?」
「……親だからだろう」
「そうだ。親だから、子を大事に思う。それは、俺が選んだ気持ちか? 違う。生まれつき、そう出来てる。親ってのは、そう出来てるんだ。……俺の意志じゃない」
ガロは、椀を置いた。
「だが、な。俺の意志じゃなくても、あれは俺の気持ちだった。娘を大事に思って、隊を売って、四人殺した。その罪は俺のものだ。生まれつきの気持ちだから、俺のせいじゃない、とは言えねえ」
◇
「気持ちが、どこから来たかは、関係ねえ」ガロは言った。「その気持ちで、何をするかがお前のものだ」
俺は、ガロを見た。
「ベテルが、お前にこらえる性質を注いだ。だとして、それがどうした」ガロは続けた。「お前は、そのこらえる性質で、獣を継がなかった。俺を忘れなかった。……それは、ベテルの手柄か? 違う。継がなかったのは、お前だ。あの一瞬、剣の峰を返したのは、お前の手だ」
「だが、その手も、ベテルが」
「うるせえ」ガロは、笑った。「じゃあ聞くがな。ベテルは、お前に俺を大事に思えと仕込んだのか? シオを助けろと仕込んだのか? ニラを好きになれと、仕込んだのか?」
俺は、答えられなかった。
「仕込んでねえよ。そんなもん」ガロは言った。「ベテルが仕込んだのは、こらえる性質だ。誰を大事に思うかまでは、仕込んでねえ。……お前が、誰をこらえてでも守りたいと思うか。それは、お前が旅の中で拾ったもんだ。俺だ。シオだ。ニラだ。……ベテルは知りもしねえ」
◇
俺は、椀を握っていた。
湯気は、もう消えていた。だが、椀はまだ温かかった。その温かさが、掌から伝わってくる。三日ぶりに、手の感覚が戻ってきた気がした。
ベテルが、こらえる器を作った。だが、その器に、何を入れるかは。誰をこらえてでも守りたいと思うかは。俺が、旅の中で決めてきた。ガロ。ミレア。コッツ。ヴァンネス。ニラ。リタ。シオ。
ベテルは、この名前を一つも知らない。
器は、借りものかもしれない。だが、中身は俺のものだ。
「――ニラが、前に言った」と、俺は言った。「借りたものでも、抱えて生きれば、自分のものになる、と」
「いい女だ」ガロは、笑った。「その通りだ」
ガロは、空になった椀を、左手で持ち上げた。右腕は、まだ吊ったままだ。それでも、この男は椀を二つ運んできた。片手で二人分を。減った手で、できることをしていた。
◇
その夜、俺は、名前を唱えた。
母。セラ。父。じいさん。ベテル。ガロ。ミレア。コッツ。ヴァンネス。ドッズ。ヘズラ。メイセン。ロコ。ジフ。三十一人。ミナ。トト。サラ。四十一の名前。名前の分からない六人。マナ。エラ。ヨナ。リノ。リタ。ニラ。シオ。
唱えながら、思った。
この名前を唱える理由は、ベテルに注がれたものかもしれない。だが、この名前を一つずつ拾ってきたのは俺だ。
器は借りもの。中身は俺のもの。それでいい。
唱え終えて、俺は目を閉じた。三日ぶりに、眠れそうだった。
隣で、ニラが手帳を閉じる音がした。今日のことを、書き終えたのだろう。ガロが、椀を二つ持って、俺の隣に座ったこと。器は借りもので、中身は俺のものだと大男が言ったこと。……ニラは、たぶん、それを書いた。明日も、あってほしいことの方を。
◇
だが、眠りに落ちる前に、検定士の言葉がまた蘇った。
あなたを育てた者に、会う日が来ます。遠くない。
遠くない、とあの男は言った。
ベテルに、会う。俺が旅を始めてから、一度も帰っていない、あの村へ。それとも、ベテルの方から来るのか。
会ったら、問えと検定士は言った。俺を、こう作ったのはあなたか、と。
いつか、その日が来る。
今日は、名前を唱えて眠る。器が借りものでも、唱えた声は俺のものだと信じて。




