第125話「測れないもの」
西の谷の町へ、着く前だった。
街道が細い峠に差しかかった。両側を岩壁に挟まれた、狭い道。その先の岩の上に、灰色の外套が一つ、立っていた。
待っていたのだ。俺たちが通るのを。
第七検定士だった。三度目だった。メルクで、カルナで、そして今この峠で。名を捨てた男が、印象の残らない顔で、俺を見下ろしていた。
◇
「――お久しぶりです」と、検定士は言った。
隊が身構えた。ガロが左手で剣の柄に触れた。右腕はまだ吊ったままだ。コッツが、地形を目で測った。峠は、逃げ場がない。
「待て」と、俺は言った。「こいつは、いきなりは斬ってこない」
検定士がわずかに頷いた。肯定するように。
「その通りです。……わたしは、測りに来ました。斬りに、ではありません」
「盤も、ないのに何を測る」
「あなたが獣を退けたと、聞きました」検定士は、岩から降りてきた。ゆっくりと。「星辰の獣を。呑まずに。……それを、確かめに来ました」
◇
俺は、盤を鳴らしていない。
この峠には盤がない。町にも、近づいていない。なのに、検定士はここにいる。
「――なぜ、ここが分かった」と、俺は聞いた。「俺は、盤を鳴らしていない。あんたは、言ったはずだ。鳴らさなければ、追えないと」
「言いました」検定士は、頷いた。「鳴らせば、追える。……ですが、あなたは、もう一つ、痕跡を残しました。盤とは別の」
「なんだ」
「獣です」検定士は、静かに言った。「星辰の獣が、一体消えました。北東の町の外れで。……澱が凝って、また散った。その澱の流れの乱れは、盤とは別の、器を測る者になら読めます。わたしはそれを辿ってきました」
背筋が、冷えた。
盤を鳴らさなくても、獣を退ければ、痕跡が残る。澱を扱えば、澱を読む者に追われる。俺は、逃げ場を、また一つ失っていた。
◇
「呑まずに、退けたのですね」検定士は、俺の目を見た。「なぜ、呑まなかったのです」
「呑めば、忘れるからだ」
「忘れる。……何を」
「大事なものを」
検定士は、しばらく俺を見ていた。測るように。数えきれぬほどの器を測ってきた目で。だが、その目に、いつもと違う何かがあった。
「――わたしには」検定士は言った。「忘れて困るものが、ありません」
「知ってる。あんたは、名前を捨てた」
「はい。十九のときに。……測る者に、名は要りません。名があると、顔を見てしまう。顔を見ると、覚えてしまう。覚えると、測れなくなる」
検定士は、そこで少し黙った。
「あなたは、逆です。覚えるために、力を捨てる。……わたしは、測るために覚えることを捨てた。正反対の、二人です」
◇
「一つ、聞かせてください」検定士は言った。「あなたを、育てた者のことです」
俺は、答えなかった。
ベテル。その名は出さなかった。この男は、リゲルを育てた者がいることを知っている。前に会ったとき、飼われたのです、と言った。だが、それが誰かは知らない。
「あなたは、獣を呑まなかった。呑めば、勝てたのに。……これで、二度目です。二年前のスピカ。そして、今回」検定士は続けた。「わたしは、思うのです。あなたを育てた者は、これを予期していたのではないか、と」
「……どういう意味だ」
「あなたは、取り込むと忘れる。だから、取り込まない。ぎりぎりまで、こらえる。……その性質は、生まれつきですか。それとも、育てられたものですか」
俺は、答えられなかった。
◇
「わたしは、数えきれぬほどの器を測ってきました」検定士は言った。「測り続けると、見えてくるものがあります。……この大陸に、真の空の器は、七人。時代をまたいで、あなたを入れて七人です。……ほかの六人。あるものは遠い昔に、あるものは近い年に。皆、力に呑まれました。空の器は、際限なく注げる。注がれるまま注ぎ返し、器が壊れるまで注いで……壊れていった。あなたを除いて」
空の器が七人。俺の他に、六人。皆壊れていった、と検定士は言った。
「あなただけが、違う。あなただけが、注ぐことをこらえる。呑まれることを、こらえる。……なぜ、あなただけが」
検定士の声に、初めて、丁寧語ではない何かが滲んだ。
「わたしには、それが測れません。あなたが、なぜこらえられるのか。……こらえるという性質を、誰かがあなたに注いだのだとしたら」
検定士は、俺を見た。
「それを注いだ者こそ、あなたを一番深く所有している。……そうは思いませんか」
◇
バルドー商会の、当主の言葉を思い出した。
注ぐ者は、注ぐ者を見分ける。あなたに一番たくさんのいいものを注いでいる者が、あなたを一番深く所有している。
ベテルは、俺に狩りを注いだ。名前を唱えることを、注いだ。忘れないための技を注いだ。
もし、俺が、こらえられるのが。呑まれずにいられるのが。ベテルに注がれたものだとしたら。
俺が、大事なものを失いたくないと思うのも。名前を唱え続けるのも。全部、ベテルに仕込まれたものだとしたら。
俺は、何のためにこらえている。
俺の意志で、こらえているのか。それとも、こらえるように作られたから、こらえているのか。
◇
「――もう、いいか」と、俺は言った。声が、掠れていた。
「はい」検定士は、頷いた。「測り終えました。……あなたは、やはり測れない。呑まない理由すら、あなた自身のものか、育てた者のものか、区別がつかない。測れない器の、測れない心です」
検定士は、背を向けた。
「一つだけ、申し上げます」去り際に、男は言った。「あなたを育てた者に、会う日が来ます。遠くない。……そのとき、問うとよい。わたしを、こう作ったのはあなたか、と。……答えを聞けたら、わたしにも、教えてください。測れなかったものの答えを」
検定士は、峠の向こうへ消えた。
三度、会って、三度とも斬らなかった男が。今度は、俺の中に、斬るよりも深い傷を残していった。
◇
その夜、俺は、名前を唱えられなかった。
唱えようとして、手が止まった。
母。セラ。父。……この名前を唱えるのは、俺が大事だと思うからだ。だが、その「大事だと思う気持ち」は、俺のものか。ベテルに注がれたものか。
分からなくなった。
ニラが、それに気づいた。
「――唱えないの?」
「……分からなくなった」と、俺は言った。「唱える理由が。俺のものか、あの人のものか」
ニラは、しばらく黙っていた。それから、言った。
「唱えて」
「なぜ」
「理由が誰のものでも、唱えた名前は、あなたのものになる」ニラは言った。「私が、埋め直した記憶が、あなたのものになったみたいに。……借りたものでも、抱えて生きれば、自分のものよ」
俺は、ニラを見た。それから小さく唱えた。
母。セラ。父。
借りた理由で。だが俺の声で。




