第123話「利き手」
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町を出るのに、三日かかった。
ガロの右腕のためだった。獣の突起に抉られた腕は、ミレアの手当てでも、すぐには塞がらなかった。深い傷だった。骨まで届いていた。三日、宿で休ませた。動かせば開く傷だった。
その三日、隊は久しぶりに何もしなかった。
盤の消えた町で。追われることもなく。子供を案じることもなく。ただ、傷が塞がるのを待った。旅に出て二年、こんなに穏やかな三日は、なかったかもしれない。
宿の窓から、盤のない広場が見えた。子供たちが、追いかけっこをしている。連れていかれずに済んだ子供たちだ。その声が、昼の光の中でやけに明るく響いた。俺は久しぶりに、警戒を解いて、その声を聞いていた。
◇
ガロは、右腕を吊っていた。
動く方の左腕で飯を食い、左手で鉄鍋をかき混ぜようとして、こぼした。二年、右手で握ってきた玉杓子が、左手では言うことを聞かない。
利き手でないほうの指は、力の入れどころを覚えていない。柄がぬるりと逃げる。二年ものあいだ、右手が当たり前にやってきたことを、左手は一から探り直していた。
「――不便だな」と、ガロは笑った。「利き手ってのは、こんなにありがたかったのか」
その笑いに影はなかった。腕を失いかけたのに。この男は、失ったものを数えなかった。左手でできることを、数えていた。
シオが、それを見ていた。鉤の手の子が。片手がうまく使えない子が。もう片方の手でなんとかしている大男を、見ていた。
◇
三日目の夕、シオが、ガロのそばに来た。
手に、玉杓子を持っていた。
「……これ」と、シオは言った。「もつの、てつだう」
ガロが、シオを見た。
「鍋をかき混ぜるのか。お前が」
「シオ、りょうてなら、もてる」シオは、両手で玉杓子を握ってみせた。鉤の手と、動く手。二つ合わせれば、握れた。「ガロは、ひだりだけ。シオは、りょうて。……あわせたら、いっこぶん」
ガロが、しばらく黙った。それから、笑った。今度は、少し違う笑いだった。
「――そうだな。お前の両手と、俺の左手で、一人前だ」
その夜、鉄鍋は、二人でかき混ぜられた。ガロが鍋を押さえ、シオが両手で玉杓子を回した。塩汁の味は、いつもと同じだった。メイセンの味だ。
火にかけた鍋から、いつもの匂いが立った。塩と、干し肉と、名も知らぬ草の匂い。会ったこともないメイセンの手が、シオの両手を通って、今夜の鍋に届いている。俺は、その匂いを、深く吸い込んだ。
◇
俺は、それを火のそばから見ていた。
ニラが、隣で手帳を開いていた。
「書いてるのか」
「書いてる」ニラは言った。「シオが、ガロさんを手伝ったこと。……こういうのは、忘れたくないから」
「戦いのことは、書かないのか」
「書いた。もう、書いた」ニラは、頁をめくった。「でも、こっちの方が、長く書いてる。獣を倒したことより、シオが玉杓子を持ったことの方が」
「なぜだ」
「……獣を倒したのは、すごいこと。でも、二度とない方がいいこと」ニラは言った。「シオが、ガロさんを手伝ったのは、小さいこと。でも、明日もあってほしいこと。……残したいのは、明日もあってほしいことの方」
◇
四日目の朝、隊は町を出た。
顔役の老人が、門まで見送りに来た。
「――また、来てくれ」と、老人は言った。「いや。……来てくれん方が、いいのかもしれん。あんたらが来る町は、何かが起きとる町じゃ」
「そうだな」と、俺は言った。
「じゃが、来てくれて、よかった。……六人のことは、これから、わしが調べる。教会に手紙を書く。返事が来るまで、何度でも」老人は、拳を握った。「返事が来なんだら。それが、答えじゃ。あんたらの連れの、言うた通りに」
ニラが、頷いた。
老人は、一枚の紙を差し出した。
「これを。……この先の町へ行くなら。西の谷の町に、わしの古い知り合いがおる。宿をやっとる。名を出せば、悪いようにはせん」
記録が、増えた。ニラの手帳に。次の町、宿の名が。
◇
町を出て、道は西へ下った。
秋が、深まっていた。街道の脇の木々が、色を変え始めている。旅に出た二年前も、秋だった。ヴェルデを発ったのは、ちょうど、こんな季節だった。あれから、二度目の秋。まだ、大陸の端にも着いていない。二百の町のうち、止めたのは、まだ数えるほどだ。
だが、急ぐ旅ではない、と俺は思う。急いで捨てた水が、子供を殺した町があった。急がずに、溜めて、待った。旅も、同じかもしれない。
ガロの腕は、まだ吊ったままだ。だが、傷は塞がり始めていた。ミレアは、あと十日で吊り紐を外せると言った。骨まで届いた傷にしては、早い。ガロの体が、頑丈なのだ。
「なあ、リゲル」と、荷馬車の上で、ガロが言った。
「ああ」
「俺の右腕、元通りにはならねえかもな」ガロは、吊った腕を見た。「握力が、戻らねえかもしれん。……盾を、前みてえには構えられねえかも」
俺は、答えを選んだ。慰めは、この男に要らない。
「そうかもしれない」
「だよな」ガロは笑った。「まあ、いい。盾が構えられなけりゃ、別のことをする。……鍋なら、片手でも押さえられる。シオが、玉杓子を回してくれる」
減らすことを、恐れない男だった。腕の力が減っても。できることを、数え直す。四年前、隊を四人減らした男が。今は、減った先でできることを探していた。
◇
その夜、俺は、名前を唱えた。
母。セラ。父。じいさん。ベテル。ガロ。ミレア。コッツ。ヴァンネス。ドッズ。ヘズラ。メイセン。ロコ。ジフ。三十一人。ミナ。トト。サラ。四十一の名前。名前の分からない六人。マナ。エラ。ヨナ。リノ。リタ。ニラ。シオ。
一人も、欠けていなかった。
獣を、継がなかったからだ。あのとき継いでいたら、この夜、誰かがこの列から消えていた。ガロかもしれない。ニラかもしれない。シオかもしれない。
継がなかった。だから、全員いる。
だが、と俺は思った。いつまで、継がずに、いられる。
今回は、隊が間に合った。ガロが、コッツが、ミレアが、ヴァンネスが、一瞬を作ってくれた。だから、継がずに勝てた。だが、次もそうとは限らない。
いつか、隊の力だけでは届かない敵が来る。そのとき、俺は、継ぐのか。継がずに、死ぬのか。
その問いは、まだ答えを迫ってこない。だが、遠ざかっても、いなかった。




