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継承者は忘れていく ~才無しと蔑まれた狩人は、敵を狩るたび最強に近づき、大切な記憶をひとつずつ失っていく~  作者: あおあお


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第120話「継がずに」


獣が、最後の一歩を踏み出した。


俺は立てなかった。


剣を杖に、膝をついたまま、その巨体を見上げていた。濁った片目と、濁っていない片目。両方が、俺を見下ろしている。背の突起が、脈打つように光っていた。


器の底で、滴が叫ぶ。


――継げ。継げば、立てる。継げば、勝てる。


その通りだった。継げば、この獣の力が丸ごと手に入る。折れた肋骨も、痺れた腕も、継いだ力が上書きする。立てる。勝てる。全部、終わる。


手を、伸ばせばいい。


心を、開けばいい。


二年前、スピカのときに拒んだ、あの一線を。今度は越えれば。


◇


「――継がねえのか」


声がした。


ガロだった。


右腕を潰された大盾使いが、左腕一本で地を這って、こちらへ来ていた。血の跡を、月光の下に長く引いて。この男は、俺のすぐ後ろまで来ていた。


「継げば、勝てるんだろう」ガロが言った。息が荒い。「継いで勝て。俺のことはいい」


「継げば」と俺は言った。声が掠れた。「誰かを、忘れる」


「忘れろ」


ガロが言った。


「忘れて、生きろ。……お前が死ぬより、誰かを忘れて、生きる方がいい。忘れられた奴だって、そう思う。俺だって、そうだ。お前に忘れられても、お前が生きてる方が、いい」


◇


俺は、ガロを見た。


この男は、四年前、隊を売った。娘の薬代のために。四人死なせた。井戸番になって贖った。そして、戻ってきた。減らすのはもうたくさんだと言って。椀を増やす方が好きだ、と言って。


その男が、今、言っている。


俺を忘れてもいい。お前が生きろ、と。


減らす方を選べ、と。この男が。


「――駄目だ」と俺は言った。


「なぜだ」


「あんたを忘れたら」俺は、剣を握り直した。「椀を二つに増やした夜を忘れる。あんたが、シオのために取っ手のない椀を選んだ夜を。……それを忘れたら、俺は、何のために戦ってるのか、分からなくなる」


◇


立て。


俺は、剣を地に突き立てた。


その柄を、両手で握った。折れた肋骨が、悲鳴を上げた。痺れた腕が震えた。だが握った。


一度。


立ち上がろうとして、崩れた。


二度。


膝が震えて、また崩れた。


三度目。


立った。


剣を杖にして。血を、流しながら。折れた骨で、息をしながら。それでも立った。


継がずに立った。


◇


獣が、俺を見ている。


なぜ立つという顔で。継げば、楽になるのに。継げば、その傷も消えるのに。なぜ継がない。


分からないだろうな、と俺は思った。


お前には分からない。お前は澱だ。誰にも受け取られなかった力の塊だ。名前を持たない。忘れる痛みも知らない。だから、分からない。


名前を、覚えているために。忘れないために。俺が、どれだけのものを諦めてきたか。


継げば、強くなる。それは、知っている。


だが、俺は。


空の器は。


何を注ぐかを、選べる器だ。


何を注がないかも、選べる器だ。


そう思った瞬間、器の底の疼きが、少しだけ遠のいた。俺が選んだのだと、体が知ったように。継げ、と叫んでいた滴が、初めて、俺の意思に一歩だけ譲った。


◇


ヴァンネスの声が飛んだ。


「――付け根! さっきと、逆側! 獣が体を捻った、その反動で、右の付け根が開いとる!」


老兵は、まだ読んでいた。獣が、俺の峰を弾いたとき、体を捻った。その捻りが戻る。戻る瞬間、逆側の付け根の光が薄くなる。一瞬だけ。


コッツが、窪地から叫んだ。


「兄貴! 綱、もう一本、あった! 足に絡める!」


最後の綱が飛んだ。獣の前脚に絡む。獣が、たたらを踏んだ。体が傾いだ。右の付け根が、月光に晒された。


光の、切れ目。


そこだ。


ミレアが走った。最後の目潰しを、獣の濁っていない方の目へ。今度は逸れなかった。獣の両目が、潰れた。


見えなくなった獣が、俺の気配だけを探して、首を巡らせる。


その一瞬。隊の全員が、作った。この、一瞬を。


◇


俺、走った。


三歩。


折れた肋骨が灼けた。息ができない。構うものか。


二歩。


獣の懐へ。継いだ足で。じいさんの足運びで。


一歩。


見える。右の付け根。光の薄いところ。ヴァンネスの読み。コッツの綱。ミレアの一撃。全部が、この一点に集まっている。


剣を振りかぶった。


峰を、返したまま。


継がずに。


――継げ!


滴が、最後に叫んだ。


俺は答えた。


断る。


◇


峰が、付け根を打ち抜いた。


光の切れ目へ。澱の薄いところへ。継いだ全部の力を乗せて。だが、継がずに。奪わずに。砕くために。


獣の体を、澱の流れが逆流した。


突起が砕けた。一つ、また一つ。水晶のような突起が、月光の下で割れて散った。


獣が崩れた。


光の粒になって。夜に溶けて。


継がれなかった力が、行き場を失って。地の底へ還っていく。溜まっていた、元の場所へ。また、いつか凝るのかもしれない。だが、今日ではない。


静かになった。


◇


俺は、膝をついた。地面が掌に冷たい。夜露で湿っていた。折れた肋骨が息のたびに軋む。その痛みが、今は、生きている証のように思えた。


剣が手から落ちた。もう、握る力もなかった。折れた肋骨が、息をするたびに軋む。だが生きていた。


継がなかった。


指を折った。母。セラ。父。じいさん。ベテル。ガロ。ミレア。コッツ。ヴァンネス。ニラ。リタ。シオ。


一人も、消えていない。


全部、まだここにある。


ガロが、左腕で俺の肩を掴んだ。


「――生きてるか」


「生きてる」と俺は言った。「あんたも、忘れてない」


ガロが笑った。血だらけの顔で。


◇


夜が明けようとしていた。


東の空が、白み始めた。獣の散った場所には、もう何も残っていない。血と汗と、澱の焦げたような匂いが、まだ丘に残っていた。風が、それを少しずつ、東へ運んでいく。水晶の突起のかけらが、いくつか光を失って転がっているだけだった。


ニラが、荷馬車から降りてきた。リタとシオを連れて。手帳を握って。


リタが、俺のそばに来た。


「おにいちゃん、いたい?」


「いたい」と俺は言った。「でも、大丈夫だ」


リタが、俺の手を握った。小さな手だった。


ニラが、その隣で手帳を開いた。今夜、隊の全員がどう戦ったかを、書くために。ガロの盾が割れたことを。コッツが囮になったことを。ミレアが両目を潰したことを。ヴァンネスが最後まで読んだことを。そして――リゲルが、継がずに勝ったことを。


ペンが走り始めた。


まだ朝は来ていない。だが、もうじきだった。

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