第119話「崩れる」
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二十歩を、詰める。
その、たった二十歩が遠かった。
俺の足は、獣を追う囮として南西へ回り込んでいた。獣の正面には、ガロがいる。俺は、その側面から脚の付け根へ回り込まなければならない。まっすぐは行けない。獣の視界を避けながら。
その間に。
ガロの盾が割れた。
◇
音がした。
鉄と木が裂ける音。二年、無数の獣を受け止めてきた大盾。その表面に亀裂が走った。
獣の突起の一つが、盾を貫いていた。水晶の突起。それが、盾板を割った。
その音が、俺の足の裏まで届いた。二年、あの盾がある限り安全だと、体が覚えていた。その安全が、音を立てて割れる。背筋を、冷たいものが走った。
「――ガロ!」
ミレアの、悲鳴。
大盾使いの体が吹き飛んだ。三歩。四歩。地を転がって止まった。盾は、腕から外れていた。割れた盾が、月光の下で二つになっていた。
二年、あの盾の後ろで、俺たちは生きてきた。裂き腕のときも。狂戦士のときも。スピカのときも。その盾が今、二つに割れて地に転がっている。
壁がなくなるというのは、こういうことだった。音もなく、当たり前だったものが消える。
ガロが、起き上がろうとした。だが、右腕が動かない。盾を貫いた突起が、腕まで抉っていた。血が月の光で黒く見えた。
前線が消えた。
獣と町の間に、もう壁はない。
◇
獣が向きを変えた。
俺を追うのをやめた。ガロが倒れ、囮の俺は、まだ遠い。獣はより近い、より弱いものへ標的を変えた。
町だ。
獣が、町の方へ首を巡らせた。北東の門。その向こうに、明日連れていかれる子供たちが眠っている。晴れ着を用意して。名誉の日を待って。
獣が、町へ一歩、踏み出した。
「――駄目だ」
俺は、走る方向を変えた。側面から、正面へ。獣と、町の間へ。囮の役目は、もう終わりだ。今は壁にならなければ。ガロが割れたその壁に。
だが、遠い。
まだ、遠い。
◇
そのとき。
コッツが動いた。
綱を失った小僧が、丸腰で獣の前に飛び出した。
「――こっち見ろ、化けもん!」
石を投げた。獣の、濁った片目に当たった。獣がコッツを見た。
コッツは走った。町とは、逆へ。獣の注意を引きながら。自分が囮になって。
「コッツ、だめ!」とミレアが叫んだ。
だが、小僧は止まらない。町から、獣を引き離す。それしか、今できることがないと知っていた。俺が間に合うまでの時間を、稼ぐ。
獣が、コッツを追った。
地を蹴る四つ脚の音が、地面を伝って、俺の足の裏を叩く。速い。二本脚の小僧では、逃げ切れない速さだった。
速い。四つ脚の獣の速さ。二本脚の小僧の速さ。差は、見る間に詰まった。
コッツが、窪地に飛び込んだ。かつて自分が罠を仕掛けた窪地。地形を知っている。獣が追って飛び込む。だが、その巨体は、窪地の縁でつんのめった。
一瞬。
コッツが稼いだ、一瞬。
◇
その一瞬で、俺は間に合った。
獣と、コッツの間に。滑り込んだ。
剣を抜いた。
長剣。継いだ死者たちの技が宿る剣。ドッズの間合い。裂き腕の読み。じいさんの足運び。全部、ここにある。
獣が、俺を見た。濁っていない方の、目で。
そして、獣の背の突起が、一斉に強く光った。
俺の器の底で、滴が暴れた。その疼きは、もう痛みに近かった。奥歯を内側から押し上げてくる。継げ、と体そのものが叫んでいた。腕が勝手に、獣の澱へ伸びようとする。それを俺は、まだ動く方の手で押さえつけた。
――継げ。今だ。この獣を継げ。
声が、いつもより大きい。獣が近いから。澱が、澱を呼ぶから。器の底の滴と目の前の獣が、同じもの同士、引き合っている。
継げば。
力が手に入る。この獣を、瞬時に倒せる。ガロを助けられる。コッツを守れる。全部間に合う。
継げば。
◇
誰を、忘れる。
俺は走りながら、いつも指を折る。母。セラ。父。じいさん。ベテル。ガロ。ミレア。コッツ。ヴァンネス。ニラ。リタ。シオ。
十二人。
いや、もっと。三十一人。四十七人。マナ。エラ。ヨナ。リノ。夜ごと唱える、全部の名前。
継げば、この中の誰かが消える。
大事なものほど、深く沈む。押し出されるのは、底にあったもの。二年前、ニラが消えた。父が消えた。俺の器の、底にいた者から。
今、継げば。
次に、底にいるのは、誰だ。
◇
俺は、剣を握り直した。
峰を返した。
継がない。この獣を、継がない。砕く。器を割るように。澱を散らす。ヴァンネスが言った、脚の付け根。光の、薄いところ。そこを峰で打ち抜く。
力は増えない。だが、誰も忘れない。
俺は、地を蹴った。
獣の懐へ。一歩で。
見える。付け根が。光の切れ目が。
あと、一撃。
峰が届けば。
――そのとき。
獣が体を捻った。
ヴァンネスの読みを、獣が崩した。付け根が動いた。光の切れ目が、ずれた。俺の峰はそこを外した。
硬い突起に、当たった。
剣が弾かれた。
手が痺れた。
そして、獣の尾が。
俺の、脇腹を打った。
◇
飛んだ。
体が宙を舞った。地に叩きつけられた。
息が止まった。
肋骨が軋んだ。何本か、いった。折れた骨の先が、内側から肺を擦る。息を吸うたびに、火が走る。
口の中に、鉄の味。血だ。
呼吸のたびに、折れた骨が、内側から別の骨を探り当てる。鋭い痛みが、脇腹から胸へ稲妻のように駆けた。腕を突こうとするたび、その稲妻が指先まで痺れさせる。
立て。
立て。
立たなければ、コッツが。ガロが。町が。
俺は、剣を杖にして立ち上がろうとした。だが、脇腹が言うことを聞かない。腕に、力が入らない。剣の先が、地を滑る。膝が崩れる。土の匂いと、自分の血の匂いが、鼻をつく。地面が、やけに近い。二年前、走れたのに間に合わなかった悔しさが、まだ骨の中に残っていた。
立て。
二年前、九日走って、間に合わなかった。あのとき、俺はまだ走れた。走れたのに、間に合わなかった。今は、走ることもできない。
立て。
立たなければ。
獣が、こちらを向いた。
濁った片目と、濁っていない片目。両方が、俺を見た。
器の底の滴が、悲鳴のように疼いた。
――継げ。継がなければ、死ぬぞ。
俺は、剣を握った。
継がずに、立てるか。
継がずに、勝てるか。
それとも、ここが。
二年前から恐れてきた、その日か。継がなければ、誰かが死ぬ。継げば、誰かを忘れる。その、二つに一つを、選ばされる日か。
獣が、最後の一歩を踏み出した。




